2021/1/20

【高原豪久】人は育てられない。育つか育たないかは本人次第

ライター&編集者
2001年に39歳で社長に就任。当初はその経営手腕を不安視されるも、圧倒的な実績で外野の雑音を跳ね返したユニ・チャームの高原豪久社長。

生理用品や紙おむつなど国内の事業基盤を強化するとともに、新興国を中心とする海外展開を加速。80を超える国や地域に進出して現地ニーズを掘り起こし、社長就任時に約1割だった海外売上高比率を約6割に、売上高を3倍にするなど、同社を大きく躍進させた。

なぜ創業者である父のカリスマ経営から、社員が自立的に動く全員経営へと転換できたのか。海外戦略、急成長を支えた人づくりなど、社長人生20年で培われた経営の要諦を語る。(全7回)

きつい、悔しい、取締役会

身内かわいさもあったのかもしれません。1995年、父はまだまだ経験の浅い私を取締役に就けました。私は33歳でした。
当時、私は経営不振の台湾の合弁会社に単身で乗り込み、向こうの経営者や社員と共に業績立て直しに奔走していました。その合間を縫って毎月、東京で開かれる取締役会に参加することになりました。
高原豪久(たかはら・たかひさ)/ユニ・チャーム 社長
1961年愛媛県生まれ。成城大学経済学部卒業後、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)を経て、91年ユニ・チャームに入社。台湾現地法人副董事長、サニタリー事業本部長、国際本部担当、経営戦略担当などを歴任後、2001年6月、社長に就任。
もちろん取締役会に参加するのは初めてです。当初は、数字や専門用語がばんばん飛び交い、どんなに懸命に耳を傾けていても、内容が全く頭に入ってきませんでした。
会議室に入って初めて資料に目を通します。当時、取締役は全員、私より一回り以上、年上で経験も豊富なベテランばかり。他の取締役はその場でざっと目を通せば内容を理解できますが、経験の浅い私にそんな芸当はできません。
資料やプレゼンテーションの内容が分からないことはさて置き、何よりきつかったのは、百戦練磨の取締役たちの前で発言をしなければならないことでした。
(写真:takasuu/iStock)
当時、ユニ・チャームでは、取締役会で議論する際、末席の取締役から意見を述べ、最後に父が総括するというのが慣習になっていました。
つまり、末席の取締役である私がまず口を開かなければならない。当初はほかの取締役からしたら、論点を外した発言が多く、痛々しく感じたほどだったのではないでしょうか。
私が述べた意見を、ほかの取締役にひっくり返されることは何度もありました。例えば、商品の販売方法について議論していたとします。私はデータなどを基に「こうしたらいいのではないか」と主張します。
その直後に、別の取締役が「現場の実態はこうなので、こうすべき」と正反対の意見を述べる。誰が見てもそちらのほうが的確なので、当然ながら、その意見が採用されることになります。
私が的を外したことを言うたびに毎回白けた空気が漂い、悔しさでいっぱいでした。
そんな私に父を含め、誰も声もかけてくれなかったし、「こうしたほうがいい」というアドバイスもありませんでした。
私以外の取締役は、自分の力で今の地位をつかんだわけですから、おいそれと教えてはくれませんよ。「こいつを育ててやろう」なんて気持ちはさらさらないでしょうし、私も自分で乗り越えるしかないと思っていました。