2021/1/19

【高原豪久】裸の王様にならないための「自己観照」

ライター&編集者
2001年に39歳で社長に就任。当初はその経営手腕を不安視されるも、圧倒的な実績で外野の雑音を跳ね返したユニ・チャームの高原豪久社長。

生理用品や紙おむつなど国内の事業基盤を強化するとともに、新興国を中心とする海外展開を加速。80を超える国や地域に進出して現地ニーズを掘り起こし、社長就任時に約1割だった海外売上高比率を約6割に、売上高を3倍にするなど、同社を大きく躍進させた。

なぜ創業者である父のカリスマ経営から、社員が自立的に動く全員経営へと転換できたのか。海外戦略、急成長を支えた人づくりなど、社長人生20年で培われた経営の要諦を語る。(全7回)

課題山積、沈滞ムード、怪文書も

私は1991年にユニ・チャームに入社しました。
どんなに素晴らしい会社なのかと、それは期待していました。なぜなら年に数回ほどでしたが、父と自宅で夕食を囲む際、ユニ・チャームという会社がいかに優れているか、どれほど社員が熱心に働いてくれているかを繰り返し聞かされていましたから。
しかし、入社してすぐ、「おやじが言っていたような会社ではない」と気づきました。社内に元気がないのです。
高原豪久(たかはら・たかひさ)/ユニ・チャーム 社長
1961年愛媛県生まれ。成城大学経済学部卒業後、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)を経て、91年ユニ・チャームに入社。台湾現地法人副董事長、サニタリー事業本部長、国際本部担当、経営戦略担当などを歴任後、2001年6月、社長に就任。
ユニ・チャームは1961年の創業以来、減収減益は80年と87年の2度しかなく、売上高は1000億円を超えていました。ただ、それぞれの部署ごとにさまざまな問題や課題が山積し、売り上げは伸び悩んでいました。
そのせいか社内は沈滞ムードで、社員は父をはじめとした上層部の悪口を平然と言っていました。「経営層が愚鈍である」などと書かれた怪文書が回ってきたこともあったほどです。

「裸の王様」だった父

父によるトップダウンの経営が長く続いたせいでしょう。
社長や上司の指示に従って、言われるがまま粛々と仕事をこなせばよいといった雰囲気があり、この局面を打開するために自分なら何をすべきかといった建設的な議論が社員の間で交わされることはなかったのです。
父はこうした状況を深くは把握していなかったと思います。部下は悪い情報を隠して、良い情報しか伝えていませんでした。ヘタに吹き込むことで、創業者で絶対的な存在である父の逆鱗に触れることを避けたのでしょう。
この頃、すでに東証1部に上場し、組織が大きくなっていたこともあり、父は財界活動に忙しく、製造や販売の現場に出向くこともほとんどなくなっていました。
父は部下からの報告を鵜呑みにし、すべて順調だと思っていた。まさに「裸の王様」でした。
私は業績が少し停滞しただけでも、ここまで人心がすさむのか、とがくぜんとしていました。このときの感情を危機感と呼ぶには軽く、恐怖すら感じました。