「鬼滅の刃」の謎 あるいは超越論的炭治郎
コメント
注目のコメント
嫌いじゃないんだけど、何か引っかかる部分がある、何か違和感がある、そんな鬼滅に対する私の感覚を、ここまで言語化してくれる人が居てくれるなんて思いませんでした。しかも、鬼滅を絶賛しながら笑。
アニメシリーズは全話見ていましたが、そこまで名作とは思えていませんでした。でも、この解説を読んで、凄く読み返したくなった。超名作じゃねえか。
ていうかまず、ここまで鬼滅を一生懸命鑑賞してくれる専門家って他にいるのかな笑。詳しすぎる笑。柱合会議の様子についてとか、実際にアニメーターさん達と色々話したことがあるのかなってくらい適切な描写に思えます。
論評するなら、ここまで知っててくれる人じゃないと信頼出来ないですね。
投げ銭するかわりに、また斎藤さんの本を買って読みたいと思います。素晴らしい。面白い論考ですね。
少年漫画のヒーローと悪役に両義性を求めるのは酷かなと思う。
確かに、好敵手として味のある敵の存在は物語を盛り上げる重要な要素かも知れないが、アンビバレンスを売りにした作品ではないように思うので、作品それぞれかなと。無惨のキャラがシステム論的で現代的という解釈は面白いが、(大人の事情なのか)部下を粛清したあたりで十分かなという気も。
富樫作品やタツノコプロ作品、レゼロの様に敵が主人公人気を食ってしまう作品(やはり主人公の心理が理解できないものが多い)が数あるなかで、炭治郎人気が高いのは、その正義(というか、ただただいい人感)のわかりやすさからかなかと。
炭治郎は生まれつきなのかトラウマなのか、前頭前野よりも大脳基底あるいは扁桃体の活性が優位になっているため、推論による考察や自分の利益計算が殆どできない妹救済マシーンになってしまっている。だから、「考えるんだ」と自問しなければ、冷静に戦いを進めることができない。
それを、そこから家族愛を感じるのか、「トラウマ的な責任と倫理」を感じるのかは受け取り手の感性によるが、一般に責任や倫理は社会的なもの(妹を助けなかったら自分は酷い人間だろうという思い)なので、炭治郎からはそうしたものは微塵も感じないので多分違うでしょう。
私はまだ最終話見ていないので、またここに戻ってくるかも。最近、座間事件犯人に対するYahooでの反応を見ていて、凶悪犯罪の責任主体についてどう捉えたらいいのか考えこんでいたので、斎藤さんの考え方をとても興味深く読みました。
鬼を決して許すことはないが、戦いに敗れて死にゆく鬼を侮辱することもしない。鬼は人間に戻った瞬間に、責任を自覚する。そして尊厳と責任の主体として死んでいく。それはあたかも「免責されることで引責可能な主体となる」(國分功一郎)過程にも似てみえる。
凶悪事件の犯人や被害者のことを考えると、これがどれだけ受け入れることが苦しい考え方であるかが分かる気がします。座間事件も鬼滅の刃の異常な人気も、安易に消化してはいけない気がするので、もう少しがんばって考え続けようと思います。