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期待を捨てることで生きやすくなるということ

あの人がこうしてくれないから、組織や社会がこうだから、その言い分は確かに真っ当かもしれない。それでもそれを言ったところで、またそのことに怒り、苛立ち、苦しみ、悩んだところで現実は何か変わるだろうか?

残念ながら殆どの場合は何も変わらない。

僕たちは往々にして期待を抱いてしまう。そしてその期待は多岐にわたる。他者からの見返りを期待したり、画一的な常識を振り回し、自身と同じ価値観を他者に求めたりもする。また組織や社会に対して、公平で優しい物であって欲しいと期待するかもしれないし、他者に自分の気持ちをわかって欲しいと思うこともあるだろう。

しかしそうした考えは時に、重荷となり、人を遠ざけ、失望をうむ。行動意欲を削ぐ事にも繋がるかもしれない。なぜなら問題が外部にあり、自分に非がないのであれば、当然自分が変わるよりも是正を望むからだ。

しかし繰り返しになるが、殆どの場合、自分が期待するように現実が変わる事は稀だ。当然状況が変わる事もあるかもしれないが、それだけに期待する事は自分の人生を自分でコントロール出来ていない不安定なものとする結果になってしまう。

ここで期待を捨てるとどうなるのだろう...。答えは単純だ。

僕たちは期待を捨てた時に、愚痴や不満を言わなくなる。その言い分が真っ当だったとしても、言ったところで無駄だと思うようになるからだ。何にも期待出来なくなった時、自分自身で努力して現状を変えなければいけなくなる。

そしてそれは自分の人生の責任は全て自分で負わざるを得なくなる感覚を持つことにつながるのだ。常にどうすればより良い状況へ変えられるかを自身で考え、努力しなければいけなくなるだろう。それは結果的に僕たちの可能性を広げてくれる。

なぜならその人の中で、誰かが変えてくれる事はなくなるからだ。誰かが哀れんで手を差し伸べてくれる事はなくなるからだ。自分の気持ちを他者がわかってくれるなんて事は幻想であると気づき、世の中には様々な生き方、価値観がある事も認めなくてはならなくもなる。

そのような考えと主体的な努力は、変わらない現状への苛立ち、世界を呪いながら現実の理不尽に押し潰されるのをただ待つだけの生活から逃れるチャンスを与えてくれる。

他人を変える事は難しい、時には状況を変えることも難しいだろう。それでも自分自身の行動や見方は、そのような事柄よりも楽にコントロールすることが出来る。コントロールできない物事に執着しては苛立ち、苦しむ自分を捨てることが出来る。

例えば不快な人がいたとして、その人に過度に反応して苛立ち、そういう人間が存在する社会を許せず失望する人と、他者を不快にさせる人はどの時代、どの文化にもいる。そしてそうじゃない人たちもいる。だから距離を取り、そうではない人たちと深く交流していこうと冷静に対処する人のどちらが幸福に、精神的に安定して生きられるかは誰の目にも明らかだろう。

前者の人は外的要因にただ振り回され続ける人生を送るが、後者の人は社会の荒波にのみこまれそうになりながらも、自身の足で踏みとどまり、今後の方向性を理性的に決めることが出来る。精神的な安定度は天と地の差があるはずだ。

期待を捨てる事は、人生で背負う必要のない不必要な荷を背負わずに割り切ることができ、状況を好転させる可能性をうみ、自身の舵を自身の手で握ることが出来る。

また感謝の気持ちもより持つことが出来る。なにせ何にも期待していないという事は、何かをしてもらうことが当たり前ではないという事だからだ。

期待を捨てることが生きやすさに直結することを早いうちから気づけた事は、振り返ってみてとても良い事だったと今でも思う。


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