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人が亡くなることに慣れていくこと

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

ボクは人がいつか亡くなってしまう、言葉を柔らかくしなければ死んでしまうことを知っています。こんなことはボクだけではなく、多くの方が知ってるでしょうが、あまり喜ばしい機会ではないものですが実感していることを一つ書いてみようかと思う次第です。

"こころ"の準備ができるときは少し余裕を持てる

慣れることがいいことなのかというと、正直「どうなのかなぁ」とは思います。ところが、慣れてしまわないと頻繁に起こってくるだろうことに感情が追いついていかなくなってしまうだろうこともわかっています。

「ああ、また誰かが死んだ(亡くなった)のか」

誰かの死を自然と受け止められることは、感情のない人でなしのような様相を呈してしまうかもしれませんが、自身の感情を破綻させないための防衛機能だと思えば、少しは納得できるかもしれません。少なくとも、ボクはそれで納得しています。

自分が年齢を重ねてきて、30代も半ばに差し掛かっているってことは、自分が子どもだった頃に大人だった人たちは高齢者になっていることを意味するわけで、そうなってくると必然的に身体的にも衰えてくる年齢です。

これまで生きてくる中で、それとなく人の死に直面することがあったために、自分と交友があった「人が亡くなったときに自分が抱く感情」を経験・把握できていますから、誰かが亡くなったとしても一定程度は受け止めた状態を作ることが可能です。

ところが、我が家で共に暮らす子どもたちは近しい人、これまでに交流雨を持った人の死に触れていませんので、これから経験と把握することになります。そこでどんな感情を抱くことになるのか、それをボクは彼らと確認・共有していこうと思っているので、彼らも慣れていくのだろうと思います。

はじめて人の死を実感した時のこと

ボクが初めて人の死に触れたのは小学生の頃でした。

5年生の秋から冬にかけてだったと記憶してますが、冬から真冬だったかもしれません。いや、そもそもそれ自体も間違ってるかもしれません。記憶を辿ったところで「この季節だったなぁ」なんてことは明確に出てこないものですね。

いずれにしても、普段、まったく接する機会のない教員から真剣な表情をされながら名前を呼ばれたのが印象的で、活発な方ではありましたが普段接する機会のない教員から叱られるほどにメチャクチャな児童ではなかったはず。

何事かと思いつつ話を聞いてみると、「おばあちゃんが亡くなったそうなの...。これからお母さんが迎えに来るそうだから準備して。」と。何を言われているのかはサッパリと理解できなかったし、人が死ぬことやそこから何が行われるのかってことまで未知の体験だったので、頭の中に空白地帯ができていました。

少し戯(おど)けながらクラスメイトから「どうした?」と聞かれたので「ばあちゃんが死んだんだって。」と答えると、無邪気に「お年玉が減るな」と言われ、さすがに悪いと思ったのか「あ、ごめん。」と謝られたことを明確に覚えてます。

すごくどうでもいいような気もするのですが、テキストにすると彼の立ち振る舞いが否定されそうな気もしますが、とてもやさしくていい奴でしたし、彼なりに"やさしさ"を奮ってくれたのをわかっていました。

そんな彼のやさしさを実感しつつも、なんだかポッカリと感情が抜けていくような寂しさを実感しながら母親の車が到着するのを待ち、乗り込んでいくと涙を浮かべている母親の姿が目に入ったので「あ、これは事実なんだ」と受け止め始めていくことになります。

そこからは多くの大人たちが泣いている姿をみて驚いたのと同時に、多くの人が泣いてるから事実なんだと受け止めなければならないのだと実感し始めたことを覚えています。

いずれにしても、当時、まだ元気だった祖父が鐘をガンガン鳴らしながら「ばあちゃん!起きろ!」と呼びかけていたのを見て、この人はどうしたんだ、と笑ってしまいました。存外、おもしろい人だったのかもしれません。

ボクがそれを把握できないままに、彼は亡くなってしまったわけですが。

"こころ"の準備ができないことだってある

人の死がいつの日も予見できる状態にあるのかといえば、そんなことがないことも理解はしています。

高齢者が亡くなることは想定できることも多いですが、若くして体調面の理由で亡くなってしまう方もいれば、不慮の出来事(事故や事件)に巻き込まれて亡くなってしまう方がいることはわかっているのです。

病気などの場合、それなりに覚悟を決める時間が設けられるかもしれませんが、事件や事故は予測が立ちづらいことと、不当な暴力や危険行為によって発生してしまうこともあり、感情的に覚悟を決めるだけの猶予がありません。

そうなると"こころ"の準備だなんて言ってられませんから、まずは「受け止める」ことをしなければなりません。そこに至るまでに要する時間は、その対象となる人との時間や機会、場面が多ければ多いほどに長く、深くかかってしまうだろうことは容易に想像できてしまいます。

人の死がなければ、そんな負の感情を抱かずに済むものの、人の死がない世界は現実的ではありません。人はいつか死んでしまうものですし、終わりがあるものです。

だからといって、ボクと関係があった人たちに死んで欲しいのかといったら、まったくそんなことはありません。可能な限り接点を持ちたいとも思っていますし、これまで接点を持った方には挨拶をしたいとも思っています。

ところが、それは叶わないことであり、現実的ではないことです。

だからボクは常に人は亡くなってしまうものであることを認識し続けていますし、ある程度の覚悟を常に持ってしまっています。その善し悪しはわかりませんが、そうしなければ自分が苦しくなってしまうことを理解しているからです。

推奨はしませんが、頭の片隅に置いておくだけで自分の感情をそれなりに制御できるようにもなります。

いずれにしても、今回もお礼を述べる機会をもらえたのだと考え、思いを巡らせてみることにします。

ではでは。

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