2021/1/30

【西 和彦】混沌とした時代を生きるには? 風と波を感じ取れ

NewsPicks エディター
若い読者は知らないかもしれない。あのマイクロソフトがベンチャー企業だった1970年代後半、創業者のビル・ゲイツとポール・アレンの傍らに、ボードメンバーとして一人の日本人がいたことを。その日本人こそ当時まだ20代だった西和彦氏だ。

しかし、西氏は経営方針の相違からビル・ゲイツと決別し帰国。アスキーを上場させ、出版、ソフトウェア、半導体、通信事業を拡大するが、バブル崩壊とともに経営が悪化し、社長の座を追われることになる。

波乱万丈な「半生」とその「反省」を語り尽くす。(全7回)

半生を振り返って思うこと

この連載も今日で最終回です。僕のこれまでを改めて振り返ってみましょう。
西 和彦(にし・かずひこ)/アスキー 創業者、東京大学大学院工学系研究科IoTメディアラボラトリー ディレクター、須磨学園 学園長

1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部在学中の1977年にアスキー出版を創業。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、79年米マイクロソフト副社長に就任。ビル・ゲイツ氏と対立し、85年マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。87年アスキー社長に就任。89年、当時史上最年少でアスキーを上場させる。資金難などの問題に直面し、98年アスキー社長を退任。2001年すべての役職から退任。その後、米マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授などを経て現在、東京大学大学院工学系研究科IoTメディアラボラトリーディレクター、須磨学園学園長。著書『反省記』
アスキー出版を創業し、マイクロソフトのビジネスをしていた時代、僕はただのエンジニアでした。半導体をつくることにこだわって、ネクスジェンという会社にずいぶん投資をした。
これは成功するかどうかわからない博打でしたが、やはりエンジニアリングの博打だったと思います。
アスキー出版を上場したときの株式の時価総額は100億円くらいでしたが、それを3000億にしました。150億くらいお金を調達して、それを投資に使った。
一番たくさん使ったのが半導体のネクスジェンです。24億はつぎ込みましたが、これでアスキーのベンチャー投資の失敗はチャラになっておつりがきました。
そしてアスキーの経営が傾いてからはリストラをしましたが、そのとき僕は初めて経営は面白いと思った。
つまり、「自分は経営をうまくできる」ということを、自分が信じ込んでもリストラにはならない。
何が本当の意味でのリストラクチャリングかというと、銀行を納得させること。要するに、「私はお金を返せます」ということを証明するのが経営の立て直しなのです。
「お金を本当に返せるのか、証明してください」と銀行に言われたら何をしなければいけないかというと、返済の計画書をつくることです。
会社の成長率が1%、2%、3%、4%、5%の場合、それから今の金利が変動した場合、というように75通りくらいのシナリオを50年分、シミュレーションする。そしてどのケースでも返せますという計画書をつくって銀行に持っていく。
ビジネススクールに行ったような経験でしたが、面白かった。だからドラマ『半沢直樹』を見ていると、「いやぁ、僕らもこんなことしたな」と懐かしかったです。

僕は幸運だった

そしていま、僕は本当にラッキーだったなと思うようになりました。
僕が天才だったから、僕に能力があったから、ああいう仕事ができたのではない。