【都市政策6つの波】現代の道路とまちには「超小型モビリティ」が必要だ

2020/10/19
これまで、世界中で高速鉄道や飛行機など〈大きい交通〉による大量輸送の整備がされてきた。それが成熟したいま、現代都市の課題を解決するうえで注目を集めるのが個人単位で移動できる〈小さい交通〉だ。そしてこの動きは、コロナ禍を受け加速している。

本連載では書籍『〈小さい交通〉が都市を変える:マルチ・モビリティ・シティをめざして』から全4回に渡ってエッセンスを紹介。いま小型でパーソナルな移動に注目が集まる背景を紐解いていく。

移動の自由が侵されている

近代社会を運営する政治システムで最も優れたシステムは民主主義だろう。民主主義の基本のひとつはひとりひとりの自由を保障することにあり、自分の意志で、自分の行きたいところに行けることは自由を構成する基本的要件である。
自由な移動は、日本国憲法で規定される幸福権、居住権を含む生存権などを保障する基礎である。
多くの人は残念ながら高齢になると運動能力が衰えて移動が不自由になる。
この不自由=苦痛を和らげることは、超高齢社会に向かう国の政策の基本になければならない。
超高齢社会では、身体にかかわる「標準」が変わる。例えば、現在の標準では「足腰が弱い人」、高齢者人口の比率が高くなれば「普通」になるだろう。
乗り物は道具のひとつである。道具は人間の能力を補い、人間の能力を拡張する。その意味で〈大きい交通〉は優れた手段である。
しかし、自動車以外は自分では運転できないし、利用するためには乗り場に出かけなければならないので、必ずしも移動の自由をかなえてくれるわけではない。
〈小さい交通〉は歩くよりは早く、歩けない人の移動を助け、しかも自分で操作ができる身近な道具である。

移動の不自由を解決する6つの方策

自由な移動は、近代技術、特に鉄道と自動車によって広い範囲で実現し、多くの人が享受できるようになった。
しかし、ひとつの交通体系の寡占は新たな不自由を生む。その例がフードデザート問題であった。
この複雑な問題の芽生えの解決にはどのようなタイプの方策があるかを概観してみよう。

①歩行者専用道路

自動車は大衆的な郊外を実現する一方、フードデザート問題だけではなく様々な問題を生み出した。
郊外化によって都市を無際限に拡大させ、エネルギー消費を増大させ、自然破壊を進め、交通事故と言い換えられているが毎年大災害に匹敵する殺傷を行っている。
こうした問題だらけの自動車中心の都市の現状や都市計画に対して、20世紀のヒューマニズム的観点から述べられた都市計画のスローガンは「歩いてくらせる都市」あるいは「歩行者優先の街」であった。
歩行者優先の都市づくりの最初は郊外住宅地における歩車分離の試みであった。1929年に開発されたアメリカのラドバーンでクルドサック式の歩車分離の計画がなされた。
その動きは戦後も継続され、70年代から伝統的な都心の商業地に広がった。これが第2波である。
世界最初の歩行者優先の商業空間の試みはオランダのロッテルダムの都心の商店街ラインバーンと言われている。
中心部の目抜き通りを歩行者空間化する動きは、その後ドイツ諸都市などに広がり、日本では1969年に北海道旭川市平和通で始まった「買物公園」、東京では翌年、新宿、池袋、浅草で「歩行者天国」が実施された。
自動車と歩行者の分離ではなく、両者の共存を実現する考え方も生まれた。
それは1970年代オランダのデルフトから始まったボンエルフと呼ばれる計画手法であった。
アメリカでは、歩行者と公共交通を同時に導入したトランジットモール化がミネアポリスのニコレット通りなどで行われた。
第1波と第2波における計画者の基本的な発想は、乗り物の空間と歩く空間を区別して、歩く空間を乗り物の空間から守ろうというものであった。
実際、これらの先駆的な試みでなされた手法は、その後の住宅地や商業地区あるいは水際域や歴史地区に適用された。
計画技術やデザインボキャブラリーが蓄積され、快適な住宅地づくりや都心の再生に大きな貢献をした。
こうした努力によって、自動車社会の圧力をある程度押し返したものの、自動車に依存する構造を変えるまでには至らず、自動車社会の大海原に歩行空間の「小島」が浮かぶ都市構造に向かうことになった。
郊外では歩いて買物のできる「小島」はテーマパーク型のショッピングモールである。「小島」に辿り着くためには相変わらず自動車が必要である。
ただ、アメリカや日本では、既成商店街の歩行者空間化は一時の勢いを失い下火になる。その一因は、欧州で行われたような都市居住まで含めた総合的な都市政策を欠いたまま進められたことによると言われている。

②コンパクトシティ

そこで、第3波はこの自動車支配の構造そのものを変えようという発想から生まれた。それはコンパクトシティに代表される動きである。
コンパクトシティは、その意味では、単に交通政策ではなく、スプロールした自動車依存の都市そのものを否定するという、現代都市に対する真っ向からの挑戦である。
コンパクトシティは、市民は都心に高密に住み、重要な施設も歩ける範囲に配置され、日常生活は徒歩ですませ、少し遠くに出かけるときは公共交通を利用することができる、という都市像である。
新規開発でコンパクトシティを実現した例では、アメリカのニューアーバニズムの思想で開発されたフロリダ州のシーサイドなどが知られているが、日本のように人口減少が今後長期的に続く地域では、もはやニュータウンの需要はない。
コンパクトシティが理想だとしたら、既成市街地を改造してコンパクトにする他はない。
ところが、すでにスプロールした都市をコンパクトにしようとすると、空間再編は都市全体に及び、多くの市民の生活と財産に関わるだけに実現は難しく、これを解決する有効な方法が示されているわけではない。
実現性はひとまず保留しても、コンパクトシティの目標像としてよく言われる「歩いてくらせる町」が本当に意味のある目標かどうかも検討を要する。
まず、歴史的に見ると「歩ける範囲で生活が完結する」という理念は、決してコンパクトシティが初めて言い出したことではない。
それは1924年にアメリカの社会・教育運動家で地域計画研究者であったクラレンス・ペリーが提唱した「近隣住区論」で主張された。近隣住区は幹線道路で囲まれ(通過交通が入らないということ)、人口は5000-6000人程度で、約60ha(半径400mほど)を想定する。
近隣住区の中には小学校、教会、コミュニティセンター、公園などが配置され、隣接する住区とのあいだに商店を配置する。まさに歩ける範囲に商店を置く考え方であった。
この考え方は、日本では初期の住宅公団などの住宅団地に適用され、住区ごとに一通りの商業機能をもたせようと、小さな八百屋や肉屋や花屋、そして内科や歯科などの診療所を計画した。
ところが、多くはすぐ寂れてしまった。というのも遠くても品揃えの豊富な店ができると、消費者はそちらに行ってしまうからである。
現代の都市には豊富なモノやサービスが溢れている。それが大都市が人々を引き寄せる大きな魅力となっている。その状況は公団住宅が計画されたころよりさらに進展している。
だから、仮にコンパクトシティができても、人々の行動はコンパクトシティの範囲内にとうてい収まりきらないだろう。
自動車所有を禁止でもしない限り近隣の商店は維持できないだろう。高齢社会と言っても、全員が高齢者になるわけでも、高齢者全員が車をもたなくなるわけでもない。むしろ身体機能が衰えた高齢者は、車が使えれば、若者以上に歩いて行けるところより、車で行けるところを選ぶだろうと予想される。
コンパクトシティが制度的に実現可能で、居住者の半分が地元の商店で買物をするという協定に参加するという仮定しても、それでもコンパクトシティをもって高齢社会に対応するという解決策は無謀である。
なぜなら、都市の構造を作り替える前に、超高齢社会はすぐそこまできているからである。

③公共交通の充実

こうしてみると、そもそも、歩行か自動車利用かという二者択一の問題設定自体に問題がありはしないかと疑問になってくる。
というのも、この問題設定は空間的には歩行者空間と自動車空間の分離につながり、結局歩行者を狭い領域に囲い込んでしまい、自動車優位の社会構造は揺らぐことがないからである。
21世紀の、少なくとも高齢化が進展する先進諸国の都市空間では、自動車か歩行かの二者択一の問題設定は不適切である。高齢者にとっては、いずれも不便だからである。
そこで、公共交通が登場する。都市内の自動車交通を公共交通で置き換えるラディカルな提案から、歩行と自動車のあいだに公共交通を差し込む提案まで様々ある。
コンパクトシティでも公共交通の重要性は強調されている。最近の日本では、公共交通の充実となると、路面電車(LRTと呼ばれることもある)が注目を集めているが、路面電車だからといって低密度に分散した地域の交通問題の解決にはならない。
むしろレールの敷設というインフラ投資の多い路面電車は不経済である。
低密度な地域の問題を解決するための現実的なシステムは、第1章で紹介したオンデマンドバスのシステムである。
道が狭い日本の都市の公共交通では、新設の場合は鉄道系よりバスのほうが優れている、というのがわれわれの基本的な主張である。
先進諸国のなかでも都市内公共交通の整備が立ち遅れた日本の地方都市では、コンパクト化するしないにかかわらず、緊急の課題であることは間違いがない。
というのも、公共交通の充実度で地方都市と大都市を比べると、歴然とした差があり、優れた公共交通システムをもつかどうかは今後の地方都市の命運を左右すると考えられる。
ただし、日本や先進諸国では軒並み公共財政が逼迫しており、問題の解決をすべて公共交通の充実に託すのは現実的ではないことは言うまでもない。

④自動車を共有する

都市の形態をコンパクトにする方法も、都市内公共交通網を充実する方法も、いずれも自家用車に過度に依存した都市構造を変えようという大胆な意図をもった施策である。
しかし、産業構造から、人々のライフスタイルにまで浸透した自家用車利用を変えることはそう簡単ではない。
そこで、次に考えられる方法は、とりあえず自動車社会を受け入れたうえで、自動車を経済的に利用するにはどうすればよいかを考えることである。
すなわち、自動車は使うが、自動車を世帯や個人で所有せずに、複数の人たちで共有(シェアリング)して、必要なときだけ利用するというものである。これが、4番目の解決法である。
共有することで世帯の出費が減り、自宅の敷地を浪費する駐車場も不要になり、ひいては自動車利用そのものも減ることが期待できる。
所有することから共用することへの意識改革が緩やかに起こっている現代日本では、今後も増え、日本の社会構造に適した方式が定着するだろう。
特に日本の都市の郊外はスプロールしたと言っても北米や豪州の低密度な郊外とは異なり、自転車さえあればなんとかなる地域が多く、自家用車の稼働率はそれほど高くない。
自動車所有の社会的ステータスも下がりつつあることも考えると、カーシェアリングの将来性は大きいと言ってよいだろう。
ただ、自動車の共用システムをいくら普及させても、そもそも自動車免許をもたない3分の2の日本人や、身体的理由で運転ができない人には意味はないのだからこれは万能ではない。

⑤物やサービスを配達する

5番目の方法は、必要とする人にサービスや物を直接配達することである。
そうすれば、個人が買物や用事のために移動しないですますことができる。高齢者が増え、自分の力での移動が困難な人が増えるのだから、確実に需要がある。
問題があるとすれば、特に高齢者を家に閉じ込めてしまうことである。
人間は身体をもった存在であり、身体を動かすことは生命維持にとっても、精神活動にとっても必須のことなので、家にいれば何でも届く状態は高齢者にとって必ずしも望ましいとは言えない。
かつては、炊事・洗濯・掃除など、家庭生活のなかにも肉体労働が様々あり、家庭生活の近代化はそれらを機械で代替して、辛い家事労働から解放することであった。
しかし、肉体労働をしなくなると、今度は身体のほうが不調をきたすようになる。いわゆる生活習慣病もそのひとつである。
家に閉じこもりきりになると、短期間に全身の身体機能が低下する。「日常の「生活が不活発」なことが原因で起きる全身の機能低下」は「生活不活発病」と呼ばれている。実は要介護の状態になる人の多くが、この「生活不活発病」が原因であり、その数は脳卒中などの病気が原因で身体が不自由になる場合を上回るという。
家に閉じこもりきりになる理由は身体的理由だけではなく、「身体が不自由な人」として人前に出ることを恥ずかしく思うからでもある。
いろいろな能力を持った人たちが堂々と街に出られるような都市文化が求められるが、デザインもそれを支援できる。WHILLの「カッコいいデザイン」は、このことを理解した戦略である。

⑥小さい交通

そこで登場するのが6番目の方法である。
自家用車以外の移動手段で、公共交通と徒歩の中間的交通手段、つまり本書の主題である〈小さい交通〉を充実させることである。
運動能力が十分ある人にとっては、〈小さい乗り物〉の代表は自転車である。
軽く、小さく、高速で、安定した走りができる。例えば、3kmの距離は、歩けば35分から45分かかるが、自転車ならば10分もあれば行ける。自動車に比べて駐輪する場所にも困らない。筋力が弱い人には電動アシストつき自転車もある。
身体機能がもっと低下した人なら、四輪の電動アシスト自転車やハンドバイクであれば難なく乗ることができる。
四輪や三輪のものは安定感があり、低速走行であってもバランスを維持できる。
このように〈小さい交通〉は徒歩より速く、遠くまで移動できる。
それは、公共交通の駅までの移動や、自動車免許や自動車を持たない人の移動や、歩くには遠い用先への移動に便利である。それは、公共交通網を補い、公共交通の活用を促し、経営の健全化につながる。それは自分でできることは自分でしたい人のための移動手段である。〈小さい交通〉は、これまでの徒歩、公共交通、自家用車に続き、かつまったくタイプが異なる第4の交通である。〈大きい交通〉と歩行のあいだに、きめ細かに対応する〈小さい交通〉を挟まないと、社会的分断と格差が広がる。
※本連載は全4回続きます
(バナーデザイン:小鈴キリカ)
本記事は書籍『〈小さい交通〉が都市を変える:マルチ・モビリティ・シティをめざして』(大野秀敏・佐藤和貴子・斎藤せつな〔著〕・NTT出版)の転載である