【基幹交通の先へ】なぜ今「超小型モビリティ」なのか【全4回】

2020/10/12
これまで、世界中で高速鉄道や飛行機など〈大きい交通〉による大量輸送の整備がされてきた。それが成熟したいま、現代都市の課題を解決するうえで注目を集めるのが個人単位で移動できる〈小さい交通〉だ。そしてこの動きは、コロナ禍を受け加速している。

本連載では書籍『〈小さい交通〉が都市を変える:マルチ・モビリティ・シティをめざして』から全4回に渡ってエッセンスを紹介。いま小型でパーソナルな移動に注目が集まる背景を紐解いていく。
日本は世界の超高齢社会の先陣を切っている。
これまで高齢者が人口の40%も占める社会を世界のどの地域も経験したことがない。それゆえ、われわれはこの問題に対して自ら解答を出さなければならない立場にある。
それは容易ではないが、ひとたび成功すれば、日本は21世紀の世界をリードする立場に立つことになるだろう。
なぜなら他の先進諸国も遅れて同じ道を歩んでくるから。そしてそれは、開拓した設計や運営や制度のノウハウを基に新たな産業を展開し、新たな雇用を生み出すことにつながるのだ。

都市のなかの〈小さい流れ〉

最近の都市風景で注目することのひとつは、一昔前に比べると自転車が随分とかっこ良くなったことである。スーツにヘルメットを被り都心の渋滞を尻目に走り抜ける姿が何とも決まっている。
また、海外の都市では、交通政策として自転車にきちんとした車線を割り振る都市や、低料金で乗り捨て利用の可能なレンタル自転車システムを取り入れる都市が増えている。
自動車メーカーも、従来の速く走るスポーティーなマシーンという発想とはまったく別の発想から生まれた商品に取り組み始めた。それは超小型モビリティと呼ばれている一人乗りの小さな車のことである。
一方、自動車の利用形態では、カーシェアリングが増えて社会システムとして定着し始めている。
これまで、自動車を保有することに価値を感じる風潮があったが、必要なときに合理的な選択肢として車を使うという生活スタイルが現れ始めている。
最近の若い人たちが車に興味を示さなくなったことと合わせて考えてみると、これまでにはなかった新しい傾向である。
1994年にハートビル法(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)ができて20年近くが経ち、段差に斜路やエレベーターが設けられることが当たり前になり、車椅子で一人で出歩く身障者や高齢者も増えている。路上にはスケートボードで走る若者もいる。
それらはいずれも、自動車に比べると、ゆっくりした移動手段で、一人で使うものであり、人間の身体能力を駆使し、それを拡大する道具のようなものである。
もうひとつ最近の交通に関わる動きで目につくのは、消費者が移動するのではなく、サービスやモノのほうが消費者の近くに移動するビジネスである。
こうした形態は、実は昔からあった。かつて医師の往診は普通のことだったし、全国どこでも「御用聞き」と「出前」が行われ、露天や屋台の店はどこの都市でも見られた。
これらは、いったんは近代的なシステムに押されて廃れてしまうが、最近、再び脚光を浴びるようになってきた。
その背景には、高齢者世帯の増加もあると考えられるが、それ以上に都市構造が大きく変化していることがある。
これらの、小さい乗り物や小さい取り引きについては、すでに様々な角度から議論され、多くの出版物も出ている。
例えば自転車であれば環境都市に相応しい乗り物として、また、電動車椅子などは福祉やバリアフリー社会の問題として、移動スーパーは買物難民の問題として、露天商は都市のアメニティの問題として、それぞれの価値が評価されている。
ここでは、小さい乗り物や小さい取り引きをまとめて、〈小さい流れ〉という概念で一括りにして、現代都市における意味を問い直そうと考えている。
都市を成り立たせているエネルギー供給にしても、通信にしても、通貨や証券、商品などいずれも、物質的側面をもっているが、同時に「流れ」でもある。
ここでの主題になる「交通」は「流れ」のひとつの形態であることは言うまでもない。
さて、「現代都市」といっても、課題はいろいろある。
例えば、エネルギーの製造と消費地の関係を適正化するとか、都市の物流を効率的に構築するとか、交通は都市活動のなかでも大口の二酸化炭素排出原因になっているので、いかにそれを少なくするかということなど、いずれも大きな課題である。
そのなかで、どうしたら人の移動の自由と生活のサービスや生活の基礎物資の確保ができるかに焦点を当てたいと考えている。

〈大きい流れ〉による都市の支配

われわれがこのような問題設定をする背景には、今日では〈大きい流れ〉によって都市が支配され、このまま行くと弱い地域や弱い個人は置き去りにされかねないという危機感がある。
〈大きい流れ〉というのは「遠く、早く、大量」を目指す流れである。
それは飛行機や新幹線、高速道路などの交通網であり、大型スーパーに大量の品をまとめて、大量の買物客に売る商法でもある。
〈大きい流れ〉は、多くの場合、国の支援を受けて大企業が運営し、大都市と大都市を結びつける大動脈であり、現代都市の文化、社会構造、そして都市形態を条件づけている。
〈大きい流れ〉はグローバリゼーションや知識産業と深い関係がある。それに対して〈小さい流れ〉は「近く、ゆっくり、少量」で特徴づけられる。
近代社会はひたすら〈大きい流れ〉の技術を追求し、それを都市に装備し、われわれの生活を大きく変えてきた。
その成果として、今や日本中の主要都市は実距離の遠近にもかかわらず、どこも日帰り圏になった。
遠くの親戚や友人の冠婚葬祭にも出席できるようになり、それまでは大都市でしか手に入らなかった品々が山深い寒村にも届けられるようになった。
〈大きい交通〉が日本人に絶大な至福をもたらしたことは間違いないし、これは地球レベルでも当てはまる。
〈大きい流れ〉の発展によって、どこでも同じような生活ができるようになり、日本中がどこも似てきた。
このことは「均質化」として問題視されることが多い。
しかし、自分たちより魅力的な文明に憧れるのは人間として自然である。実は、地域性がなくなったと嘆くのは旅行者の見方である。
旅行者は旅先でスターバックスを見つけてがっかりするが、地元の人はスターバックスが出店すると、これで我が町も一人前になったと喜ぶものである。
〈大きい流れ〉がもたらした真の影響は、世界の均質化ではなく、普通の人たちが旅行者の視点を持つようになったことである。
だから現代では同じ人がスターバックスに対して異なる2つの態度を平然ととることになる。
少し横道に逸れたのは、「均質化」問題のために、真の問題が隠されてしまうからだ。
というのは、交通で言えば、〈大きい交通〉が成立するためには交通の網の目を粗くすることが必須である。
その結果、〈大きい交通〉の粗い網から多くの都市や地域がこぼれ落ちることになり、その恩恵に与れなくなるからである。
新幹線や飛行機や高速道路は、拠点間の時間距離を縮めた。中小都市に住む消費者も、地元の商店街や文化センターに行かなくなり、商品やイベントが豊富な大都市に向かう。その結果、中小都市は衰退してしまう。
新幹線が通っても、それまで特急が停車していた都市の多くには新幹線駅はできず、在来線では特急が廃止されて普通列車しか止まらなくなり、中小都市は都市として格下げになる。
そこで利益を受けるのは、核都市に住む人々と〈大きい交通〉の運賃や利用料金を払える人だけである。
自家用車保有が一般的になる70年代から出現する「自動車郊外」と呼ばれる地域では、自動車がないと食べ物も買えないし、友だちの家を訪ねることもできない。
この現象を象徴するのが「買物難民」あるいは「フードデザート」問題である。
今後急速に超高齢社会と人口減少の道を邁進する日本では、買物難民は非常に大きな問題になる。
こうして〈大きい流れ〉は、結果的に〈小さい流れ〉を抑圧し、〈大きい流れ〉は強者の利につながりやすい。
アマゾンのおかげで、地方都市も大都市も、本を買うことに関しては平等になった。ところが、各国のアマゾンの売り上げはほとんどシアトルの本社に計上されてしまう。
仮にトリクルダウン効果があるとしても、それはシアトルでしか起こらず、日本の都市で起こるわけではない。このようにアマゾンは経済的な観点から見ると〈大きい流れ〉なのである。
〈小さい流れ〉に肩入れする時期自動車郊外では子供や高齢者、あるいは経済的に自動車を持つ余裕のない世帯は、自動車社会から取り残され、移動の自由から疎外されてしまう。
〈小さい交通〉のひとつの存在理由はここにある。
太いが粗い〈大きい交通〉が届かない身体の組織の隅々まで、栄養を届け老廃物を排出する毛細血管の役割をするのが〈小さい交通〉である。
〈小さい交通〉がなければ社会は壊死してしまう。われわれはそんな危機感を共有したいと思っている。
自家用車は少人数で乗り、小回りがきくだけではなく、身障者の行動範囲を広げることもできるという側面もある。
だから自家用車は〈小さい交通〉としての資格を十分もっている。ところが、自家用車が高規格道路と結びつくと、俄然〈大きい交通〉として振る舞うようになる。
逆に、自転車の場合は、自転車レーンが整備されていないが故に歩行者にとって凶器になってしまう。
最近自転車と歩行者の衝突事故が報じられることが増えているが、これは、日本では自転車の利用率が高いにもかかわらず、自転車車線が事実上整備されていないことが一因である。
日本の宅配便は1976年に始まるが、今やサービス網は日本中を覆い、1日か2日で冷蔵、冷凍が必要な品物まで含めて何でも届く。受け取りも時間も細かい指定ができ再配達もしてくれる。
最近は通販と組み合わせて、重い飲料などは専ら宅配便頼みの人も増えている。宅配便は独居老人や、フードデザートに住む人たちには心強い味方である。また個人の要求にきめ細かく応えて物を運ぶ〈小さい交通〉である。
さきほど〈大きい流れの〉横暴さの例として出したアマゾンも、宅配便がなければ成立しない。
これらの例は、〈小さい流れ〉や〈大きい流れ〉という概念は、個々の流れの物的性質ではないということを示している。
「流れ」という概念も「交通」という概念も物の様態についての概念であることに注意が必要である。
そして同時に、交通で言えば、乗り物だけの問題ではなく、道路の構造の問題でもあることも重要である。
私たちは〈大きい流れ〉を排斥したいのではない。それどころか、現代社会は〈大きい流れ〉なくしては立ち行かないと考えている。
しかし、その影響力が大きすぎ、弱い個人も弱い地域も完全にないがしろにされ始めていることを問題にしたいのだ。
特に高齢化が進行し、地方都市の衰退が著しい日本の都市では〈小さい流れ〉の衰退は大きな問題である。
現在、日本で高齢社会対応というと、生活習慣病や認知症や介護施設のことなど医療と介護が話題の中心になりがちであるが、実際には75歳以上の後期高齢者でも要介護率は23%にすぎず、残りの77%の人たちは多少の支援があれば自活できる。
自活できるのに都市の空間構造や選択できる乗り物の制限で外出ができず、それが原因で生活不活発病になっているのだとしたら、それは不幸なことである。
2045年には75歳以上の人口が日本の総人口の17%を占めるようになるのだから、決して少数の人々の問題ではない。
〈小さい流れ〉の充実は、自活できる77%の人々の率を引き上げ、高齢者に喜びをもたらし、ひいては医療や介護の負担を減らすことにもつながる。
だから、今は、〈小さい流れ〉に肩入れをする時期なのである。
そのためには、交通で言えば、これまでの近代的な都市計画で扱ってきた3つの交通形態である〈歩行〉、〈公共交通〉、〈自動車〉に、第4番目の交通形態として〈小さい交通〉を加えることが必要なのだ。

人間の住まいに関心のあるあらゆる人に向けて

我々の最大の狙いは、〈小さい流れ〉の最前線で何が起こっているかを紹介することである。
小さい企業や個人、そして大学の研究室で、小さい乗り物や運用システム、そして新たなサービスが生まれている現場を案内し、開発にあたっている人々の熱意や工夫のポイント、そして魅力を紹介し、その可能性を探りたいと思う。
日本の都市は〈小さい交通〉に関しては保守的で、その意義を認めず、いつまでも自動車にしがみついている。
しかし、世界の交通先進国は〈小さい交通〉にきちんとした都市交通としての役割を割り振り始めている。
本当は、世界で最初に超高齢社会を経験する日本こそ、〈小さい交通〉のパイオニアでなければならないのである。
本書が、交通計画に携わる専門家や乗り物の商品開発に関わるデザイナーたちだけではなく、未来の人間の住まいに関心のあるあらゆる人々の発想に響けばと願っている。
※本連載は全4回続きます
(バナーデザイン:小鈴キリカ)
本記事は書籍『〈小さい交通〉が都市を変える:マルチ・モビリティ・シティをめざして』(大野秀敏・佐藤和貴子・斎藤せつな〔著〕・NTT出版)の転載である