2020/9/16

【提言】「わかりあえなさ」から始めよう

早稲田大学文学学術院 准教授
今、世界は「わかりあえなさ」に満ちあふれている。
インターネット上の言論に顕著なように、一つの事柄に対し、両極の見方をする人々が誹謗中傷を繰り返し、怒りや憎悪を増幅させてしまう。政治の世界でも、世界中でポピュリズムが台頭し、異質な他者や社会的弱者に非常に厳しい政治が力を得ている。
アルゴリズムによって、人々が見たい情報しか見えない「フィルターバブル」「エコーチェンバー」が強化され、より分断は強化されていく。
だからこそ、まずは「わかりあえなさ」からわかり合おうーー。
テクノロジーと人間の関係性を研究する情報学者のドミニク・チェン氏は、誰しも「わかりあえる」という前提にこそ、社会が暴力的になってしまう要因があると見ている。
今年発売の著書『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(現在五刷)で、自らのパーソナルヒストリーから、社会を覆う「わかりあえなさ」までを綴ったチェン氏にロングインタビューを敢行した。

なぜ、「わかりあえなさ」なのか

──今回の書籍は、まずドミニクさんのパーソナルヒストリーが描かれています。
最初は、新潮社の編集者の方から「この10年ほどの活動をまとめてください」と打診されたところから始まりました。
この10年間といえば、3.11のような社会的な出来事や、個人的にも企業から大学へ移るというキャリア上の転換点など、たくさんのことがありましたが、突き詰めて考えると、子どもが生まれた瞬間の光景が忘れられないと思い至りました。
これは、すごくパーソナルなことで、あまり人と話したりすることではなかったのですが、そこを自分の中で言葉にしないと、研究や仕事でいろいろ物を考えていく中で、突破できないような気がしたんです。
だから、書籍の冒頭では、子どもの出産のシーンに立ち会った時に感じたことを、初めて言葉にしてみました。それで、その後、どういう変化が自分の中で起こるか、流れに身を任せようと思って書き始めたら、さまざまなコミュニケーション、アイデンティティの問題に気づかされました。
端的に言えば、みんな「自分は1人の個体」だと思っているわけですが、実は、もっと互いに折り重なっている存在なのかもしれない、ということです。しかも、これは親子ではない人間関係でも可能なのではないか、と考えが膨らんでいきました。
メディアやテクノロジーを使って「関係性をデザインする」という、普段していることから、非常にパーソナルなところに立ち戻りつつ、それが、なぜ今この現代において意味があるのか、ということまでが、だんだん自分自身の中でつながっていきました。
最初は、正直不安でした。
自分語りを起点にしているので、自分事として果たして読んでもらえるのか、すごく不安だったんです。しかし、ふたを明けてみたら、若い人から年配の人まで多くの方に共感しながら読んでもらえて驚きました。
局所的な事柄を突き詰めて書くことで、逆に個人を越えた地平にたどり着くんだと実感しています。そうすると、他の人にも自分の人生を投影して読んでもらえるんですね。
──子どもの誕生という徹底的にパーソナルなテーマに振ることで、これまでとは異なる受け止め方を読者にもしてもらえた、と。
よく言われることですが、子どもが生まれて最初の5、6年間は、圧倒的なスピードで成長していくものですから、そばにいるだけで感化されるんですね。気持ちがすごくリフレッシュされたり、自分の幼少期が身体の奥底から思い起こされたりする。
ありきたりな言葉でいったら「若返る」みたいな感覚ですね。
親友や恋人、夫婦などさまざまな関係性において、お互いの存在が半分シェアされている、みたいな感覚が生じると思います。その中でも親子関係というものは、強烈に自分の生活が変わるものですね。それなのに、世の中を見渡すと、思想家や知識人はほとんど子どもとの関係というパーソナルなことを真正面から語っていないように思います。
僕はだから1人の読者として、「みんなもっと語ってほしい」「みんなはどう思っていたんだろう」と思っていて。時々、ちょっとスピンオフ的な作品で自分の家族とのことをちょっとエッセイにしたためるみたいなケースはあります。
ですが、僕自身は、エッセイで終わらせたくなかった。
だから、「子どもの誕生」という極私的なイベント自体に、今の自分の研究につながるコンセプトが隠されているのだろうと考えながら書き進めました。それで、書き上がった後に、『わかりあえなさをつなぐために』という副題が思い浮かんだんです。

終わりが始まる感覚

──「わかりあえなさ」というのは、印象的なサブタイトルであると同時に、今世界で起きている様々な分断を見渡す上でも、大きなテーマです。
そうですね。僕は「今の社会は、わかり合おうとしすぎなのではないか」と思っていて。
全世界的に社会が良くも悪くも「わかり合おう」としてきたのが近代化の流れだとして、その崩壊の兆しになったのが2001年9月11日だったのではないかと思います。
(写真:Photo12/Universal Images Group via Getty Images)
僕はちょうど二十歳の時にテレビ画面のなかで崩れ落ちるニューヨークのビルを見て、終わりが始まるという感覚を植え付けられました。