【塩野誠】デジタル通貨と国家の攻防 #5/6

2020/10/9
「テクノロジーを知らずして、未来を語ることはできない」とよく言われる。しかし、現代は、国際政治への理解なくして未来を語れない時代となった。

ファーウェイやTikTokが米国から追放され「米中新冷戦」とも呼ばれる状況の中、日本はどう振舞うのか。GAFAは政府のように公共性を担う存在になりえるのか。SNSで投票を操作できる世界で、民主主義は成立するのか。

様々な論点を一つの物語として描き出す新刊『デジタルテクノロジーと国際政治の力学』(塩野誠著)の各章冒頭部分を、お届けする。
通貨は「イカロスの翼」か
2019年6月18日、フェイスブックは暗号通貨「リブラ」構想を発表した。
24億人のユーザを有するフェイスブックが独自の通貨を発行するという発表は、世界中の注目を集めることとなった。なかでも各国政府、規制当局の視線はリブラの動向へと一斉に注がれた。米国、欧州、そして中国からもだ。
フェイスブックを生んだ米国は発表から1ヶ月後の7月16日、リブラ事業の責任者で、元ペイパル社長であるデイビッド・マーカスを上院公聴会に召喚した。公聴会ではリブラに関して個人のプライバシー問題やマネーロンダリングに利用される可能性など、多くの重大な懸念が示された。
公聴会での冒頭陳述を行ったシェロッド・ブラウン上院議員は「フェイスブックは危険である」と述べ、「マーク・ザッカーバーグは、フェイスブックが企業というよりは政府のようになるだろうと言っていた。しかし誰もマーク・ザッカーバーグを選挙で選んではいない」とし、フェイスブックという一企業が、(自分の)銀行と自己の利益のために連邦準備金制度をつくることは「息をのむような傲慢さである」と糾弾した。
続いて米国以外の各国政府も強い批判の声を上げた。2019年9月12日、フランスのブルーノ・ルメール経済・財務大臣はOECD会合の場で、企業によるデジタル通貨は政府の主権を弱体化させるとし、「リブラに関する懸念はすべて深刻なものである。私は明言したい。この状況においてヨーロッパの地でリブラの開発を許可することはできない」と声を上げた。また「(リブラは)世界中に20億人以上の利用者がいる単独のプレイヤーが保有する世界的な通貨になるだろう。国家の通貨主権が脅かされている」と述べた。
営利企業であるフェイスブックが国家の独占する通貨を自ら発行しようとすることは、傲慢なのだろうか。自らのパワーを過信し、太陽に近づき過ぎた者はイカロスのように翼を失ってしまうのだろうか。各国政府がフェイスブックを強く批判するなか、リブラに視線を注ぐもう一つのパワーが動いていた。
2019年7月9日、中国人民銀行の周小川前総裁は、「中国の外国為替管理の改革と発展」という会合に出席していた。周小川はリブラ構想について、「潜在的なリスクを事前に調査できれば、中国にとって大きな利益になる」と指摘し、「将来的には、より国際的でグローバル化した通貨、強い通貨が主要通貨を代替するかもしれない」と語った。リブラの潜在的リスクについて知ること、そしてドル、ユーロ、円といった国際秩序を司る主要通貨を代替する通貨の可能性について中国高官が言及したことは大きな出来事だった。そして1ヶ月後の2019年8月12日、中国人民銀行決済局の穆長春次官は、中国のデジタル人民元は「今にも出てきそうだ(呼之欲出)」と述べた。
世界中で24億人のユーザを持つフェイスブックのリブラ構想は、国家を目覚めさせ、デジタルテクノロジーによる国際金融の新たな世界を予見させるには十分だった。英国の国際政治経済学者スーザン・ストレンジは1998年の著書『マッド・マネー』で「利潤を求めて技術革新は生ずる。しかし利潤は単に経済学だけの問題ではない。技術革新から利潤を得る機会は、何らかの政治的権威によっても与えられ、支えられている」と述べている。フェイスブックという非国家アクターが通貨という主権国家の独占領域に手を伸ばすことは、主権国家からすれば許し難い脅威なのだろうか。
こうした構想自体は以前にも存在した。フリードリヒ・ハイエクは1976年に『貨幣発行自由化論』で、通貨発行は民間に任せ競争させるべきであり、中央銀行は不要だと述べている。
営利企業であるデジタルプラットフォーマーにとって政治的権威は必須なのだろうか。長きにわたって挑戦されることのなかった国家の通貨主権は、リブラ構想によって急激に動き始めることとなった。
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*塩野誠氏は、株式会社ニューズピックスの社外取締役です。