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多様性に興味を持ち、その体験を通じて考える力、表現するチカラを伸ばしていきたい。 自分の興味ある分野を深掘りする継続力も大切。
これからも環境は変わっていく。 変化を恐れず 楽しめるひとは 年齢にかかわらず 充実した生活をおくれると思う。
「先の見えない時代」
バブル前ならいざしらず、その後先が見えていた時代があったでしょうか?すくなくとも私はバブルはギリギリしらないし、小さい頃から先が見えないと言われていたように思います。

私は発達心理学などの専門家ではないので自分の体験でしか語ることができませんのでその分加味して話半分で読んでください。

よく、幼少教育が叫ばれます。私は幼稚園だけ近くの私立にいきましたがあとは市立小中と県立高校でした。勉強も強くやれと言われた記憶もないし、貧乏だったので塾とか習い事も最小限でした。

けれども、いま振り返って思うと良かったなと思うことは下記です。

1. 貧乏だけど両親が全力で接してくれた。父親は帰ると近所の公園でどろどろになるまで遊んでくれました。母親は内容やページを捲るタイミングをこちらが暗記してしまうくらいたくさん本を読んでくれました。遊園地とかそういうお金のかかるところにいった記憶は殆どないけれども、お弁当をもって本当に色んな所にいった経験を思い出します。あけびとりととか、タチウオ釣りとか。なので、「子供は野に放て!」と思います。

2. 周りの大人たちが厳しく接してくれた。ご飯の食べ方が上品でない、とすっっごい遠縁の親戚に怒られたり、公園で危ないことをしていると知らないおじさんに怒られたり。いまは「触らぬ神に祟りなし」なのかもしれませんが、自分に関わってくれる大人がすごく多かったです。言葉の使い方とかマナーとか安全に対する嗅覚とか、人間力が大事だと思います。

3. 一生モノの友人が沢山得られた。これはお金を出して得られるものではありません。幸いにも小学校180人、中学と高校は500人程度のマンモス校だったのでとにかく友人が多い。いまも小学校時代の友達と飲んだり遊びに行ったりしますし、中学の友達で構成するLINEグループには何十人といるし、高校の時の同級生はみんな一流になって一緒に仕事している人もいるし、大学時代も卒業して20年以上経つのにまだ一緒に飲みに行く仲間が沢山いるし。それが自分にとって一番の宝ですね。単に一緒にいて楽しいだけでなく、お互いに助け合えます。若い人たちにメッセージを送る機会があるときには「人との縁を大事にすべき。これからの社会、(これまで以上に)重要なのは人のコネクションと体力」と言い続けています。
「子供たちに何を教えるべきか」という記事ですが、自分は何を学ぶべきか、という姿勢で読みました。教育は変わろうとしています。しかし、彼らが大人になったとき、上司として指導するであろう我々のレベルが今のままでは意味がない。大人こそアップデートしなければなりません。乱暴な言い方をすれば、適切な環境があれば子どもは放っておいても成長する生き物です。
我々大人はそのフェーズが終わったので、意識的にしか成長できない。VUCAの教育論に基づき成長した子どもたちから、尊敬される、頼られる、参考になる、学びを与えられる大人になりたいですね。
乳幼児がいるので魅かれて最後まで見たけどSponsoredだった。。
幼児教育の重要性も理解できるし子供への投資は惜しみたくないけれど、中流の一般家庭が元気溌剌で文武両道な子供を育てられる環境が今の日本にどれだけあるだろう。自分もその一端を担ってしまっているけど、個人主義、安全第一が行き過ぎて、公共資源だけで十分に育てられるなんてとても思えない。

結局、大金を積んで紹介されたような場にいける子供だけがVUCA時代を乗り越えていけるのかと思うと、焦燥感とともに遣る瀬無さを覚える。
多様性を許容する力を備えること、または自分で多様な経験をして「一人ダイバーシティー」になること。そのためには、こどもの時から親は枠にはめようとせず、いろいろなことを興味に任せてちょこっと経験させる(Hack)ことが重要だと感じます。いろいろな人がいるし、いろいろな面白いことがあるし、いろいろあるから楽しいんだ、と体感させたいものですね。

しかし、OECDが「変革を起こす力のあるコンピテンシー」なんて発表してるですね。実に的を射ていますね。驚きました。
変動が多く、不確実で、複雑で、曖昧な、時代の教育論。

理解しようとすればするほど、江戸の世の寺子屋の発想に近いと思うのは自分だけか?

そもそも教育とはここに書かれているようなもの【だった】が、敗戦をきっかけにガラリと変わってしまった、それが意見しない年代を生み、しかしながら産業効率上都合がよかった時代が続いた。

時は令和。令和型の寺子屋が望まれる。政府ができないなら、法令改正し、考える子供を増やす学校単位を認めるような流れにぜひ!と思う。
いつの時代も生きることは難しく尊い。
我々の時代を先人は「先の見えない時代」と言ったかもしれない。これからを生きる子ども達の未来は我々が生きてきた今までとは異なるかもしれないが、我々とて子供の頃に今を見通せていた訳ではない。
杞憂である。期待こそすれども心配無用。お節介である。
未来をつくるのは次代を生きる人達。余計な口出しはせず私は今を生きる。若かりし日に見通せなかった未来たる今を。
ここに書かれている内容を実践するには、今の学校では無理でしょう。

だからといって、ここで身に付けるものが、この教育機関だけでしか身に付けられないということもありません。

実際に起きてること、体験してること、そこから起きそうなこと。こうしたことを、どうとらえて、どう、自分事に変換して行けるように、子供に伝えられるかが、2人育てた経験から言えます。

子供も一人の個人。

親や学校、周囲の人の想いが色々あっても、選ぶ・体験するのは、子供自身。

教える、育てるでなく、育つのを助ける・見守るということが大事と感じてます。
思いやり、やり抜く力、協調性など今までは教育でそれほど大切にされなかった分野が大切になる。
自分力が重用されるなら納得ですね。
これからは自分力、教養が豊かさを分けますね。