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気軽にコメントしづらい記事ではあるが…今回のBLM運動を知った人たちが「日本には差別はあまり無い…」的なコメントや意見を何度か目にするにつけ、「あなたの周りではそうだったのですね」という感想を何度か思ったものです。でも、それは幸せなことでもある。

日本にも少数の民族、人種、生まれた場所、障害の有無、なんなら性別や年齢での差別もまだまだ多いし大部分は下手すると無意識によってなされている。(アメリカにも公に目や耳にする事がなくなっただけで全然ガラスの天井は数多く存在する。) 人は自分と違う存在や自分の理解の及ばない存在を見ると相互理解しようとするよりも排斥しようとすることの方が多い。わかりやすいからね。
アメリカほどに多様性が謳われてきた国でも根深い差別は存在するし、なんなら香港人は深セン人を下に見てるし、シンガポール人はマレーシア人を下に見てるわけですよ。日本人にも人によっては潜在的なそうした意識はちらほらあるわけで…。

部落差別についてはもはや、それを忘れて生きていくことの方が幸せだとは私も思う。知らなければ差別しようとも思わない。その意味では部落差別を教えることの意味すら、どうなのか、とは思う。

もうちょっと言うと、もう20年も25年も前かな、親戚とTVを見ていて「あー、これはあそこの出や」とか言い出して、私は子供ながらに「なんてことを言うのか!」と言ったのだが、「お前はまだあの人たちと命のやり取りをしたことが無いからそういうキレイ事が言えるのだ」と言われたときに、どうしようもない世代差による絶望的な認識の差を思い知らされた。差別意識を教育で取り除くのは理想論で、個人的には忘れるのが一番だと思う。親や周囲が言わなければ子どもに人種差別意識なども育まれることは無いのだから。
幸か不幸か部落差別と言うものを具体的に知らずに生きてきた身として、改めて考えさせられました。

今考えれば、もしかして…ってのもあります。

介護関連の仕事をしてる身内から聞いた話で、
いくつかの地域で知的障害を抱えてる方々が多いと。
なぜそうなるかと言うと、その地域内で結婚を繰り返しており、親類同士の結婚も当たり前だと。
だからマズいのだ、とその身内は言っておりました。

(追記 知的障害の方全てのお話ではなく、あくまでそう言う方々に直面していた人間の話をここに記載しただけです。後から考えると話のサンプルとして適切ではないかもしれません)

当時、「山奥の田舎ってそう言うものなのかな」ってなんとなくしか思って無かったんですが。
地元に留まりたいって方も多いですからね、田舎は。

でも改めて考えると。

恐ろしさを感じました。
コテコテの関西人であるわたしは小学校から高校まで「同和教育」を受けてきた。会社に入ってからも「同企連」の研修を受けてきた。そして子どもの頃から祖父母や父母や親戚のふとした日常会話の中で「憚られる何か」「できれば関わりたくない何か」としての部落差別の存在を知った。

いろいろな噂話めいたものはあった。でもBLMのように具体的なあるいは積極的な差別行為が伴う何かを実際に見聞きしたわけではない。日常生活において目に見える形でそれが表出したことはなかった。しかしそれは職業に関する会話や地域に関する会話からひとびとの間で密かにそして確実に存在していたことを知ったのだ。関西ではたぶんそんな感じなんだろうと思う。

わたしが筆者の問いに深く考え込んでしまうのはわたしたちの父母や祖父母やその前の世代のひとびとがずっと「憚られる何か」「できれば関わりたくない何か」としてひそひそとした小声でしかし確実に部落差別を綿々と受け継いできたことを自分の受けた同和教育のなかで再確認したからだ。自分の意識や意思にかかわらず「おまえは差別する側にいるのだ」と定義され糾弾される立場に常にいることを。

部落出身の筆者はできれば部落差別や同和教育の実態や自身の出身地はおろかそういう「言葉」からすらも距離を置きたいと願う。なぜならばそれを筆者は「部落差別という呪い」がかけられているからだという。とても切ない。しかしそれはわたしも同じだ。こういう切実な問いに接するとき「決して意識しない」という形で「意識してしまう」そんな自分がいる。筆者とは間逆な形で。

そんなわたしは筆者のコメントに対して何かをいえる言葉が見つからない。きっと「呪い」をかけられているのは部落出身者である筆者だけではなくわたし自身もそうなのだ。「呪い」を解くにはどうすればいいのだろう。