2020/8/16

【クリスプ 社長】サラダの既成概念を変えた男の破天荒な人生

CRISP, INC. 代表取締役
ニューヨークの街角にあるようなオシャレな内装。フレンドリーな接客。そしてサラダの概念を覆すかのような、自分好みにオーダーできる主食としてのサラダ。「クリスプ・サラダワークス」は2017年のオープン以来、熱狂的なファンを増やしながら規模を拡大してきた。

さらに完全キャッシュレスの店舗を実現したり、外食産業一般で利用可能なシステムの販売をしたりと、「飲食×テクノロジー」の領域にもチャレンジしている。

そのクリスプ・サラダワークスの社長が宮野浩史氏だ。情熱と行動力で飲食の世界を広げる宮野氏の「仕事の哲学」をお届けする。(全7回)
宮野浩史(みやの・ひろし)/クリスプ 社長兼CEO
1981年千葉県生まれ。15歳で渡米し、18歳のときに現地で飲食業を起業。22歳で帰国し、タリーズコーヒージャパンで緑茶カフェ業態に5年携わる。その後、ブリトー&タコス専門店「フリホーレス ブリトー&タコス」を立ち上げる。現在はカスタムサラダ専門店「クリスプ・サラダワークス」などを展開するほか、カチリでモバイルオーダー運用ソリューション「PLATFORM」事業にも取り組む。

サラダなのに主食並みの満足感

僕は今、クリスプ・サラダワークスというサラダの専門店を経営しています。
僕たちが提供するサラダは、「サラダとは、こういうもの」という既成概念とは、ちょっとずれているかもしれません。
お客さんの注文を聞いて一つ一つ手づくりしているし、サラダなのに主食といっていいほど満足感がある。おかげさまで「熱狂的なファン」に支えられ、東京を中心に、現在16店舗を展開しています。
クリスプ・サラダワークス青山店
ボリューム満点のサラダ
また、飲食×テクノロジーの領域にも挑戦しており、完全キャッシュレスの店舗をつくったり、専用アプリで事前注文しておけば同時にクレジットカードで支払いも済むというシステムをつくりました。
このシステムは、効率性、人件費削減などの目的ではなく、私たちと同じブランドを重視し、ファンを創造していく目的をもった、ほかの飲食店にも応用可能なかたちで販売もしています。
こういうとまるで順風満帆のようですが、ここに至るまでには、実にさまざまなことがありました。この連載では、僕の半生についてお話ししたいと思います。

高校中退、家を出る

僕は千葉県千葉市出身で、父は普通のサラリーマン。母はパートに出るくらいで、基本的には専業主婦という、ごく一般的な家庭に育ちました。
幼少の頃
しかし僕は、別にグレていたわけではないけれど、高校を1年の1学期に中退してしまいます。
希望校に落ちて仲のいい友達と離れ離れになり、誰も知り合いのいない、すごい田舎にある高校に通うのが耐えられなかった。
朝、家を出ても足が学校に向かない。両親はもちろん心配だったと思いますが、強制的に学校に行かせようとはしませんでした。
僕には年の離れた兄と姉がいて、僕は末っ子です。だから両親も僕には甘かったのかもしれません。兄も姉も、僕が高校に入るころには家を出て独立していました。
高校に行かなくなると同時に、僕は都内で一人暮らしをしていた兄と同居することになりました。
どういういきさつだったのか、ちょっと覚えていないのですが、たぶん、「何もやることがないなら働け」みたいなことだったと思います。そこで居酒屋さんのアルバイトを半年ぐらいしていました。

アメリカの高校に進学

そんなとき、「アメリカの高校に進んだらどうか」という話が出てきた。母の知人のきょうだいに、中国系アメリカ人の方がいて、その方の家にホームステイに行くことになったのです。
おそらく、母親とその知人が話しているときに、
「浩史君、高校行かんの? 大丈夫? 私のきょうだいがアメリカにいて、ホストファミリーをしているから、よかったら聞いてみようか」
というような話になったのだと思います。
アメリカの高校に行くという話を聞いたときは、「すごく行きたいわけでもないけど、行ってもいいよ」くらいの気持ちでした。たぶんものごとを深く考えていなかったのでしょう。
流されるがままだったのですが、10代のうちにアメリカで暮らしたことは、今思えば僕の性格も、運命も、生き方すらも、大きく変えたのです。

アメリカのお父さんとの出会い

ホストファミリーの家があったのはカリフォルニアでした。地図でいうとサンフランシスコのちょっと上のほうにある、ベイエリアと言われるエリア。その家の一部屋をもらって、そこから高校に通うことになりました。
ホストファミリーは日本に住んでいたこともあり、みんな日本語が話せる人たちでした。
血でいうと中国の人だけれど、もう何十年も前にアメリカに渡って、アメリカ国籍も取っている。
この家族のお父さんが、僕にとって第二の父親というか、アメリカのお父さんのような存在になり、やがて僕はこの人に商売の基礎を習うことになるのですが、それはもう少し先の話です。
僕がアメリカに行ったのは3月でしたが、アメリカの高校が始まるのは9月。それまでの半年は、ESL(イングリッシュ・アズ・セカンド・ランゲージ)という英会話学校に通いました。
(写真:monkeybusinessimages/iStock)
ここはほかの国から来た労働者が英語を覚えるための学校で、授業料はほぼ無料。僕はほかに行くところもないので、よく一日中そこで過ごしました。
ホストファミリーはいい人たちばかりで、たまにどこかに連れていってくれたけれど、平日は仕事をしているので一日中僕の相手をしているわけにもいかないからです。

来る日来る日も英語漬け

最初はやっぱり、全然英語がしゃべれない。相手の言葉もわからない。すごいフラストレーションでした。