【移動の社会学】乗馬の時代から未来の「循環対理論」まで振り返る
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注目のコメント
高速"度"道路と低速度道路は、黒川紀章が50年以上前から分離・共存の観点から問題提起してましたよね。
これらをシステムとして捉えて、高速度移動と低速度移動のインターフェースをどうするかは、実は真剣に検討されて来なかったとも言えそう。
ラトゥールの循環体を持ち出すと、議論が混乱するので、シンプルに速度の異なる移動体をどのように運行させれば良いのかを着実に検討すべきでしょう。
同じ人類学者なら、川田順造の<運ぶヒト>の人類学の方が、ヒトモノ輸送としてライド・ヘイリングを進化させるヒントになるのでは。書籍「モビリティーズ」から連載第2回。
移動は都市計画にも、リスク管理にも、移民や、教育、全ての社会に紐づきますね。
人々はわざわざシステムを構築し、遠くまで自らやモノを動かすことに「自由」や「支配」を見出していたという部分には確かに、と思いました。社会や経済、文化の血液が「人」だとしたら、
「人の移動」は「血流」ということになる。
動こうという「人の欲求」が「血圧」。
血圧があるからこそ、
血流は人体というシステムの中で流れる。
数ヶ月前までの世界は高血圧(=人の過剰な欲求)だったのではないか。
その圧力で人は凄まじい移動の中で生活していた。
それがコロナで強制的に血圧を下げられた。
まるで降圧剤のように。
これから徐々に正常な血圧(=人の欲求)に戻さなければならないと思います。