「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感

ただの「同調圧力の象徴」になっていないか

マスクと「香港デモ」

世の中には、「そんなことは誰でもわかってる、わざわざ言う必要も価値もない」と、誰もそのことについて深く探索しないまま、うやむやにされていく「大事なこと」がたくさんあります。「新型コロナウイルス問題」の成り行きについても、そろそろ少なからぬ人が違和感を抱いているのに、口にするのは憚られるという状態になっているのではないでしょうか。

いつまでこんな「警戒」や「自粛」を続けるのか。ウイルスに「打ち勝つ」ことなんて本当にできるのか。でも、多くの人はそうした思いを口に出すことはなく(言えば猛批判に遭うことはわかりきっていますから)、ただただ空気に従って、やみくもに、あるかどうかもわからない「出口」を目指している、ように思えます。

とりわけ筆者が最も違和感を抱くのは、「マスク」の役割についてです。

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昨年のちょうど今頃、香港で中国本土政府の行政支配に抗議する大規模デモが勃発し、ほぼ半年間にわたって混乱が続きました。

香港デモは、一見した限りでは、最近米国各地で勃発したアフリカ系差別反対の抗議運動と重なって見えます。怒りの対象が第一に「警察」に向けられていることは、双方同じでしょう。

でも両者の根本的な性格は、まったく異なります。筆者は、香港での大規模デモ発生の当日(2019年6月12日)から数か月間にわたり、現地でデモの動向をチェックしました。ミネソタでのデモが、容疑者とされる黒人青年を警察官が殺害したことに端を発したのとは違って、香港の警官は先制して市民に手を上げたわけではありませんでした。

現地で見る限り、一部が暴徒と化した若者中心の香港市民に対し、少なくとも暴動が人的被害を及ぼすようになるまでは、香港警察は、一般の市民や自分たちを危険から防ぐ最低限の防御しか行っていませんでした。

しかし、一部の(といっても膨大な数の)香港市民たちは、メディアを通し、世界に向けて「警察は悪」というアピールを続けました。「中国共産党の手先である香港警察は、民主主義・香港市民の自由を剥奪しようとしている、ひいては、我々を殺そうとしている」と言って、警官に一方的な暴力をふるい、あるいは各国の報道陣の前で膝まづいて、居もしない警官に向かって「どうか私を殺さないでくれ」と懇願するなど、パフォーマンスを行なうのも目にしました(デモを取材していたとき、筆者も警察ではなく暴徒に囲まれ、カメラを奪われました。その顛末はこちらの記事を参照)。

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