【林篤志】私がローカルプロデューサーになった理由

2020/5/31
NewsPicks NewSchool」では、7月から「ローカルプロデュース」プロジェクトを始動。リーダーを務めるNext Commons Lab(NCL)代表の林篤志氏は、「ポスト資本主義社会を具現化する」を旗印に、国内外13拠点を構えて、ローカルに注目して様々な社会実験を実践している。林氏に「ローカルプロデューサーという仕事」について聞いた(全2回)。

大企業を辞めた理由

──林さんは、豊田高専出身です。まず高専に進んだ理由を教えてください。
当時は学校でテストを受け、成績が付けられ、大学に進学するという流れを、「面倒くさい」と感じていました。
それよりも、「とにかく早く社会に出て、誰よりも早く仕事をしたい。勉強で評価されるより、早く働いたほうが自分としても面白いし、社会にも貢献できるんじゃないか」と。
高専であれば、大学に進学するよりも何年か前倒しで専門技術を学べます。当時はITバブルの時期だったこともあり、「何となく情報工学っていいな」と感じて、高専に進みました。
プログラミングは嫌いではありませんでしたが、クラスにいた天才たちを目の当たりにして、「俺がここで勝負したらダメだ」と早々に思わされましたね。
林 篤志/一般社団法人Next Commons Lab Co-Founder 代表
2016年、一般社団法人Next Commons Labを設立。自治体・企業・起業家など多様なセクターと協業しながら、新たな社会システムの構築を目指す。日本財団 特別ソーシャルイノベーターに選出(2016)。Forbes Japan ローカル・イノベーター・アワード 地方を変えるキーマン55人に選出(2017)
──卒業後は、システムエンジニアとして就職しました。
流れとしては、高専の延長線上にあるシステムエンジニアを選びました。
とはいえ、ひとつの場所にとどまって一生懸命我慢することは性に合わなくて。僕自身は「ここで続けてもなあ」と逃げて行った結果、今に至っているのかもしれません。
──大企業のサラリーマンからNext Commons Labというローカルプロデューサーへの転身とは大胆ですね。
自分としても、想定していませんでしたね。
はじめに日本ユニシスグループに入社して、環境にも同僚や先輩にも恵まれ、仕事も非常にやりがいがありました。
ところが、あるときに、ふと「この仕事は自分よりできるほかの人たちにやってもらったほうがいいかも」と、感じた瞬間があったんです。
それに加え、配属されて6カ月ほどして、先輩から「林もそろそろゴルフやろうぜ。今週末、打ちっぱなしに練習しに行こう」と言われたとき、「嫌だな」と瞬間的に思ってしまいました。
「平日に仕事でこの人たちと一緒にいることは楽しいけど、なんで週末も一緒にいなきゃいけないんだろう」と疑問に感じたのです。
──人間関係が嫌だったのでしょうか。
仕事では、本当に尊敬する人たちばかりでした。
ただ、自分の価値観や人生を共有し合える人たちかと言えば、そうではなかったのかもしれません。
自分の違和感はどこからくるのだろう? 
もっといろんな人の話を聞いてみようと考え始めたのが、ひとつのきっかけでした。
それで2年間の会社員生活で、最後の1年間は自分で企画して毎月1回勉強会を開きました。
当時から勉強会やセミナーは世にあふれていたので、似たようなことをやっても面白くないからと、一般的な生活を送っていたら接点がないような人たちを呼ぼうと考えたのです。
そこで講師として呼んだのが、ホームレスのおじさんやヤクザの組長、新宿・歌舞伎町にあるぼったくりバーの店長、殺人の前科のある人たち。
そういった人たちから話を聞く、学びの場をつくっていました。

起業のきっかけは「ゼロ」

──どう口説いたら、そういう方々に講師になってもらえるのでしょうか。
当時はサラリーマンだったので、はじめはスーツを着て、会社帰りに声をかけてみました。
ただ、それではホームレスのおじさんに相手にされません。
自分自身、「これではダメだな」と思い、一度帰宅してジャージを着て出直しました。そして、その格好でビールを飲みながら話すことで、次第に仲よくなれましたね。
あとはインターネット上の裏掲示板に、「前科ありでも仕事あります」とフェイク求人を出したりしました。
そうすると相手から連絡が来るので、直接会って、「実は…」と勉強会の説明をするという流れです。
今も「なんでNext Commons Labをやってるんですか?」と聞かれることは多いですが、僕の場合は好奇心や興味があることに突き進んでいった結果です。
起業家がよく「私の原点」や「起業のきっかけ」を話すことがありますが、僕の場合はありません。全くのゼロです。
ただ、その勉強会を通してさまざまな出会いがあり、2年で会社を辞め、2009年に自由大学を立ち上げることになります。
──自由大学は開校以来、200種類の講義を企画し、1万人を超える人が受講しています。そこから、Next Commons Labにつながるのでしょうか。
実は自由大学を立ち上げた後、1年ほど全国各地を放浪して、珍しい種を探し歩いていました。

「植物の種」から見えてきたこと

──種? 植物の種ですか。
そうです。
非常にマニアックな話になりますが、例えばリンゴは元々地中海が原産で、シルクロードを通って日本に入ってきました。
その後に全国に伝播(でんぱ)していく過程で形質が変化し、各地の在来種や固定種といわれる種になります。
そうした在来種や固定種は、かつてリンゴだけで8000種類ほどあったといわれています。
(写真:iStock/xamtiw)
もちろんリンゴだけでなく、あらゆる植物や野菜も数多くの種がありますが、種も次第に少なくなり、今では限界集落のおばあちゃんしか持っていない種があったりします。
放浪期間では、それらの珍しい種を集め、どう復活させ、流通させるかに注力していました。
考え方としては、ビル&メリンダ・ゲイツ財団が援助して北極のスヴァールバル諸島に2008年につくられた、「スヴァールバル世界種子貯蔵庫」と共通しています。
ここは農作物種の種子を保護するために300万種以上を保存できる隔離された保管庫です。
農業がより科学化や工業化していくにつれ、種も遺伝子組み換えが進み多様性がなくなっていきます。
そうなると、何かトラブルが起こったときに種が死滅するリスクも高まるため、遺伝的多様性をどう担保するかが重要になってきます。
それに加え、種に紐づいた文化をどう残していくかも考慮していました。
実は全国には特定の野菜に紐づいた郷土料理やお祭り、歌といった文化は多く、種の消滅とともに、そういった文化まで一緒になくなってしまいます。
なので、遺伝的多様性と文化的多様性の両方を後世にどうやって残していけるかをテーマに、「シードバンク・プロジェクト」として全国を歩き回っていました。
──柳田國男みたいですね。
近いかもしれませんね。
当時は渋谷で、種や自家栽培のワークショップの開催もしていました。
毎月満月の夜にバーやカフェに集まり、「シードエクスチェンジ」というイベントで、お酒を飲みながら種の交換をしたり、「その珍しい種、すごいですね」と盛り上がったりしていました。
何だか怪しい話に聞こえるかもしれませんが、そういった活動をしているうちに、「日本のローカルって面白いな」と感じるようにもなっていました。

山奥の村に拾ってもらった

僕自身は愛知県の一宮市出身で、実家の周りは田んぼや畑だらけです。
とはいえ、名古屋駅まではすぐだったので、何でもそろっていた地方都市でもありました。
それが、日本のローカルに実際に足を運んで、茅葺(かやぶ)き屋根の古民家や限界集落を初めて目にしているうちに、課題よりも可能性を感じ、面白いと思うようになっていったのです。
(写真:iStock/kata716)
当時は自由大学を立ち上げたり、会社を辞めてフリーランスとして悠々自適な東京ライフを送ったりしていました。
ところが、それらの生活は結局のところ、誰かがつくったものに上書きしているだけです。
一方で、ローカルの現場で、ものすごい感性を持っている人たちとも接していました。
そこで、「都市部の人たちはなぜダイナミックに新しいことを生み出せるローカルにアクセスしないんだろう」という疑問がふっとわき、「それなら、自分が都市とローカルのパイプ役になろう」と、種のプロジェクトを介して自分のマインドが変わっていったのです。
そして、「どこかでそんな場をつくれないか」と全国を歩き回っていたとき、高知県の旧土佐山村という、人口1000人ほどの山奥の村に出会って、拾ってもらうことになります。
──拾ってもらったとは。
そのときの僕は25歳前後で、経験と言えば東京で自由大学を立ち上げたくらいです。
そんな20代前半の若造が「こういうことを考えていて、ぜひやりたいんです」と言ったとき、地元の人たちや行政の人たちは「いいよ。一緒にやろうか」と応じてくれたわけですから。
その結果、2011年に旧土佐山村を丸ごと学校にして、都市部から若者たちを呼び込み、都市の感性やスキルと地方の知恵を互いに教え、学び合いながら掛け合わせていく土佐山アカデミーが立ち上がりました。
もし自分に原点があるとすれば、そのときの経験がNCLをはじめるに至ったきっかけと言えるかもしれませんね。
※続きは明日掲載します。
(構成:小谷紘友、撮影:是枝右恭)
ローカルプロデュース」プロジェクトは、7月10日(金)スタート。プロジェクトの詳細はこちらをご覧ください。