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やっと再開できたランニングについて

どうも、遠藤です。

ここ1、2年、それまで日課にしていたランニングをすることができなかったんですよね。別に好きな時間に走ればよかったのだけど、どうも気持ちや生活習慣がうまくマッチしなくて走り出せなかったと思っていて、最近はそれがマッチしているように感じているのかもしれません。

走り出したと言っても365日以上走っていなかったようにも思うので、初めて走り出すような心持ちです。

まずは1分だけ走るところからはじめ、徐々に伸ばしてる段階なのですが、しばらく走っていると、自分なりに満足のできる時間や距離などが徐々に出てくるハズなのでそれを見極めつつ、合わせていきたいなぁ、と思うのです。

走る理由

ぼくが走る理由については、一般的なランニングをする人たちとは異なるかもしれません。いわゆるダイエット的なカロリー消費を目的にしたものでもなければ、それを継続した先にある体重の減少などを目指しているわけではありません。

じゃ、なんなんだって話なのですが、答えとしては「一定のリズム感を得たい」っていうのが主な理由で、走ることによって自分に一定のリズム感が生まれること、それを期待して走ってます。

それなら歩くでもいいじゃないか、と言われたこともあるのですが歩行だとリズムのテンポや感覚がどうも「鈍い」と感じたのもあり、手段を変える意味でランニングにした次第なんですよね。

ある程度のテンポで、一定のリズム感を得られるような行動や行為って、たとえばラジオ体操なんかもそうなんですが、どうしても音楽がないと乗り気になれないラジオ体操は落選してしまいます。

他でいえば、そうだな。たとえば、電車の揺れなんかも同じ感覚かもしれません。同じような交通機関系だとバスもあるのですが、バスの場合はしょっちゅう止まってしまうのでリズムが掴みづらいところもあるため落選。

ただ、電車もバスも、ぼくの生活習慣の中に組み込めないため、選択肢には上がりません。残念です。

ラジオ体操もそうなのですが「〇〇がないとできない」という状況になってしまうことは、ぼく自身がリズムをつくっていこう、取得しようと思っているのに矛盾するので選択肢として除外する他になくなってしまうのです。

自分で、自分の足でリズムを得るために方法を模索していた中で、それとなくはじめてみたランニングだった、というわけです。

スポーツは生活が前提

皮肉にも、というか、スポーツを楽しむためには生活が前提なのだということを実感しているところです。

ぼくが走ることに随分と能動的になっていた時期と、走れなくなっていた時期を比較してみると、走れなくなっていた時期は明らかに生活習慣が整いづらい状況になったなぁ、と振り返っています。

上で、バスは一定のリズムを得るのに止まる頻度が高いから落選、と書きましたが、まるでバスに乗っているかのような生活リズムのぶつ切り感があったために、整えるのに苦労していたと振り返っているところです。

それは働き方もそうなんでしょうが、自身の精神的な意味での習慣も丁寧に把握できていなかったようにも思いますし、それを整えようとすると、走るのではなく他の方法で整える他になかった。ということになります。

それがいまは整っていると実感しているのと、それを前提に生活ができているので、より走ることでリズムを引き上げていきたいと感じている態度なのかもしれません。

しれません、ってのはおかしいのですが、その欲がどこから湧いてくるのかをイマイチ説明しきれない部分があるので、勘弁してください。

あ、もちろん、年齢を重ねてきているので適度な運動をしていないとすぐにゆるすぎる体になってしまうのを危惧している感情もありますよ。

子どものゆるい体はかわいげがありますが、中年以上の男性がゆるすぎる体をしていたら、ぼくはちょっと情けなく思ってしまうので、そうあるべきではないという気持ちもありつつ、です。はい。

いつも以上に駄文でしたが、お付き合いありがとうございました。

それでは、また。



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