【アシックス】ナイキ席巻に慌てなかった三つの理由

2020/4/18
大きく揺れ動くランニングシューズ市場。各メーカーは、新技術や独自のマーケティングを駆使し、シェア獲得に奔走する。世界のマラソン界をけん引してきたアシックスの戦略とは。
原宿、竹下通りと明治通りが交差する絶好のポイントには、アシックスのあらゆるランニング用品が揃う旗艦店がある。
東京五輪のゴールドパートナーとして公式ユニフォームを担当するアシックス。その旗艦店にはランニングギアと五輪用のウエアのラインナップが並ぶ。
店内は朝から国内外からのコンシューマーで賑わっている。
2019年、ランニングシューズ市場ではナイキの“厚底”が席巻し、エリートランナーから市民ランナーに至るまで深く浸透した。
アシックス・パフォーマンスランニングフットウエア戦略部部長の臼井聖児氏は、「前半戦のシェアは大きく変わりました」と語る。
株式会社アシックス パフォーマンスランニングフットウエア戦略部部長 臼井聖児氏
“前半戦”というのは、フルマラソンをサブ10からサブ3(2時間10分以内から3時間以内)で走る選手層を表している。サブ4レベル(4時間以内)、同5、6レベル、スタートレベルなどに分けられるランナーたちのトップ層だ。
「悔しいですが、世界や日本で選手が結果を出して、世の中が厚底シューズにすごく注目するようになりました。
テレビを含めてあれだけ露出すると厚底シューズのシェアはすごいことになっているんじゃないか、と多くの人が認識したと思いますし、実際その影響は非常に大きかったです」
ランシュー市場を席巻した、“厚底”の衝撃と戦略
箱根駅伝を初め、東京マラソンや海外の国際大会でも多くのエリートランナーたちがナイキの『ヴェイパーフライネクスト%』を着用。
アシックスの顔であり、2018年のアジア王者である井上大仁も、今年の東京マラソンはナイキのシューズで走った。
「正直、ここまで影響が出るとは思っていませんでした。
ただ、アシックスはこれまでも選手に寄り添い、選手のためのシューズ作りをしてきました。契約選手が厚底シューズを選んだことは気持ちとして苦しい部分がありますが、アスリートの選択を受け入れるマインドをアシックスは持っています」
日本で最も注目される東京マラソンでシューズを選択してもらえなかったことは、アシックスにとって忸怩たる思いがあるだろう。
さらにアシックスは早稲田大学の体育会運動部のサプライヤーだが、箱根駅伝で出走した選手の中でアシックスを履いたのは2区の太田智樹と8区の太田直希の2名。
選手個々が判断して決めたこととはいえ、それを飲み込めたのには理由がある。
一つがシューズ戦略の違い。二つ目は「ナイキの矢がランニング層全体に行き着いていない」という判断。そして三つ目が新シューズへの自信だ。

ランニング文化を支える価値観

「いまメディアが捉えている厚底人気という現象をランニングする人たち全体の比率で考えると、かなり印象が変わってきます。
厚底が売れている事実は冷静に受け止めていますが、私たちがシェアですごい打撃を受けているかというと、そうでもないんです。
厚底はトップレベルがターゲットですが、まだまだそのレベルに行かない人が圧倒的に多いです。街で普通に走っている人のシューズを見ると今はうちのブランドが増えているんじゃないかという印象を受けています。
私たちは「日本にランニング文化を広める」ことを軸としています。それぞれのランナー層で競争はありますけど、前半戦ばかりに走ってしまい、大事なところを見失ってはいけないというスタンスでいます」
大事なところ──。
ランニング市場は、一般的にエリートランナーが頂点に立つヒエラルキーでとらえられている。
陸上の世界ではタイムがモノを言うので、その三角形が作られるのはある意味当然だ。だが、臼井氏が指す大事なところとはエリートのトップレベルだけではない。中心にある一番太いランナー層やランニングを始めたばかり、あるいはこれからランニングを始めようとするビギナー層の人たちのことも指している。
「トップの層を狙ってドーンと打ち出すのは効果がありますし、記録をうまく利用したマーケティングはうまいなと思います。ただ、“こういう人たちしか使えません”と出しても、アシックスのランニングとしてはあまり意味がないと思っています。
レースをメインとした前半戦シェアは確かに厚底を中心に大きく変わりました。とはいえそれ以外のシェアはまだそれほど大きな変化がないですし、逆にそこに変化がないようにと私たちは考えています」
アシックスには、各レベルの層に向けて、ランナーのあらゆるニーズに応えられる「隙のない商品展開」がビジネスの根幹にある。
実際、商品はマトリクスになっている。
ユーザーが望むマス目をすべて埋め尽くし、漏れがないように完璧な商品構成をしているわけだ。
アシックスに商品が多いのは、まさにそのためである。そして、これが「日本にランニング文化を広める」というアシックスのブレない軸だ。
すべてのランナーを対象し、必要なシューズを提供していく先にアシックスの未来がある。
ではその上で、トップ層を独占する厚底にどう対処していくのか。
「もちろん、結果にコミットすることはすごく大事だと思っています。
青梅マラソンで前田(穂南)選手が日本記録を出して優勝したことで、シューズへの関心が高まり、改めてトップ層が重要な部分だということは十分認識しています。
これから巻き返すぞという気持ちはすごく強いですね」

満を持して登場する『メタレーサー』

1968年メキシコ五輪で銀メダルを獲得した君原健二の時代から、有森裕子、高橋尚子、野口みずきら日本のトップランナーは、アシックスを履いて五輪でメダルを獲得してきた。
マラソンのシューズはアシックスとイコールになり、国内を始め欧州でも根強い人気を誇っていた。文字通り、日本にマラソン文化を広げてきた歴史がある。
一時は世界のランニングシーンをけん引したアシックス。そのプライドをかけて、新商品は大きく進化を遂げている。
アシックスは新商品『メタレーサー』を発売する。
新型コロナウイルス感染拡大のため発売を延期。発売日の再設定については後日アシックスの公式サイトで発表される。
「これまでのアシックスのシューズにないものです」
『メタレーサー』は3年前から開発を進めてきた。その当時からランニングシューズ市場は「大きく変わってきた」と臼井氏は言う。
「数年前は市場において1万円以下の中低価格帯がよく売れていたのですが、最近は当社で言えばメタライド(27000円)、グライドライド(16000円」など価格帯の高いシューズの動きが良いです。
高いシューズは機能的にもそれだけの価値がありますし、ランナーのみなさんにもそこを納得してご購入いただいています。ちょうど厚底がトップ層のシェアを拡大していくタイミングで、そういう流れに変わってきたのかなと思います」
アシックスが「メタレーサー」を開発する過程で、スピードのあるランナーが必要とするものとして意見が出てきたのが「推進力を生み出すガイドソール」であり、さらに「軽さと剛性を生み出すカーボンプレート」が加えられた。
アシックスが「同じカテゴリーのシューズを出す上で負けたくない」とシューズ開発で重視してきた基幹技術「ガイドソール」がある。
「ガイドソール」とは、足首の関節のエネルギーを効率よく推進力につなげる、つま先のそりあがった特徴的なフォルムを表す。
東京マラソン2020モデルの『GLIDE RIDE』。靴底前部にカーブを設けた“GUIDESOLE”が採用されている。
スポーツ工学研究所フットウエア機能研究部フットウエア機能開発チームマネジャーの仲谷政剛氏はこう語る。
「ランナーが地面を蹴ったときに一番推進力を生み出す要素は足首回りで蹴ったときの力なんです。
同じ速度で走るためには足首のエネルギー消費量を減らしてあげることが必要になります。簡単にいうと走るときに足首の角度が変化しないようにする。それによって効率のいい走りができる。要は省エネですね」
公式HP動画より引用。
足首回りで消費されるエネルギー量は「足首まわりの筋肉で発揮した力」と「足首角度の変化」との掛け算で算出する。同じ力で蹴っていても足首の角度の変化を小さくすることがエネルギーの消費に繋がってくるという考えだ。
全体のコスト(消費)が抑えられるので出力(蹴る力)を上げればスピードが上がる。すると速く走れるのでタイムを短縮できる。実際、契約選手がプロトタイプのシューズでレースに出て、良好なフィードバックも得られている。
また、今回、カーボンプレートが使用されているのも大きなポイントだ。
「レースでスピードを出すために、ソールの剛性と軽さが必要という意見がありました。そこで、ソール部に内蔵されたカーボンプレートが効果を発揮するのです」
『ガイドソール』の機能をより活かすために、その形を維持する剛性が必要であると考えた。そのためにカーボンプレートが使用されている。
「スピードを高めるために設計されたレーシングシューズですので、メタライドとは全く違うシューズとして考えていいと思います。
他社シューズに対抗できるだけのクオリティを持っていますし、その自信はあります」

アナログ式で、密につながる

メタレーサーは高スペックのシューズとして注目されるだろう。では、どのようにランナーに周知し、注目を集めていくのか。
臼井氏は言う。
「新しい体験をイメージしてもらうことです」
「今回のシューズは、一番速く、美しく走れる姿を追い求めた結果、新しく生まれたものです。まさに『新しい体験』になります。それを一人でも多くの人に触れてほしいと思います。
だから専門店や大会、イベントで試し履きを積極的にやっていきたい。『あなたに履いてもらいたい』という意識から1対1のコミュニケーションを大事に、その良さを理解していただく。
特にエリートランナーは履いてなんぼというのがありますので、実際に履ける機会を増やし、みなさんにインフルエンサーになっていただく。その効率がいい悪いは別にして、とにかく物理的な接点を持って、良さを伝えていきたいと考えています。それが昔からのアシックスのやり方なので」
マーケティングの手法はアナログだ。しかし、このスタイルがランナーに対して一番ダイレクトにシューズの良さを理解してもらえるという実感がアシックスにはある。
さらにアシックスは二の矢、三の矢を考えている。
『スマートシューズ構想』はそのひとつだ。シューズにセンサーを埋め込む、あるいはアタッチメントで取り付けて走ることで携帯電話やPCで走り方や接地の傾向を瞬時に出していく。
これまで店に来ないとできなかったことを携帯電話で簡単にできるようにする。
アシックス原宿旗艦店は、試し履きはもちろん、誰でも足型をとることができ、気軽に最適なシューズを選択できる場となっている。
「アシックスは、常に全てのお客様と密着したいんですよ」
広報室長である大橋寿康氏の言葉だ。
「メタレーサーが出ることでトップ層もシェアを変えて行きたいです。
昨年からトップ層の市場が拡大してくれたこと、また新しいテクノロジーを受け入れる寛容性がより高まったことはアシックスだけではなく、他ブランドにとっても大きかった。
トップ層で勝負できるシューズをピンポイントで出しつつ、これからランニングを始められる方々にも対応できるシューズも出していきたい。
ビギナー層の方々にいかに継続して履いていただけるかが大事で、それがシューズのビジネスに影響してくるんです」
今後、ナイキが商品構成を整え、総取りの戦略を進行する中、アシックスは移り気なランナーの気持ちをどのくらい掴めるだろうか。
「ターサーは家みたいなシューズ」と高橋尚子が語った。いろんなシューズを履いても最後にはアシックスに戻ってくるという。
そんな『ランニングシューズの家』のようなところを目指しつつ、新しい体験を提供し、対話と多様性でランナーを包囲していく。
ナイキのようなスピード感はないかもしれないが、これはランナーにジワジワと効いてきそうだ。
(執筆:佐藤俊 編集・撮影:日野空斗 デザイン:國弘朋佳 写真:GettyImages)