【リーダーの告白】人気チームゆえの苦境、打開策の肝

2020/6/18
いかにして多くの観客をスタジアムに集めるか。
地域チームとしてその課題をクリアしてきたのがレバンガ北海道だ。債務超過でクラブ存続の危機を迎えていたチームは、リーグ4位の集客力で黒字化を果たす。
そこに、直撃したのが「コロナショック」だった。
「成功例」は、新型コロナウイルスとともに過去のものとなってしまうのだろうか。
選手兼オーナーとしてチームを牽引した折茂武彦(4月に引退)と横田陽代表取締役CEOに聞く。
【転換点】「脱・試合」×「365日モデル」構築のヒント

レジェンドの“花道”をも奪ったウイルス

 こんな結末は、誰も望んでいなかった。
「現実なのか、そうじゃないのか。まだ、その間にいる感じです。本当に、なんて表現していいか分からないんですよ」
 50歳を目前に控えた4月後半、折茂武彦はそう言った。
 苦笑の奥に、戸惑いが滲む。
 日本のバスケットボール界を牽引し続け、昨年、通算1万得点という国内トップリーグにおいて日本出身選手として初となる大記録を打ち立てた希代のシューターだ。
 実に27シーズン目となった今季をもって、コートを去ることを発表していた。
 「北の大地にバスケットボールを根付かせてくれた男」と「共に戦い、支え続けてくれたブースター」。彼らが分かち合うはずだったカウントダウンをも、未知のウイルスは奪い去った。
 残すところ20試合となっていた3月27日。
 以降のリーグ戦とポストシーズン全てが中止になると発表された。
 最後の公式戦となったのは、3月15日の川崎ブレイブサンダース戦。今季最長の15分7秒に出場し、3ポイント1本を含む5得点、3リバウンドと気を吐いた。
 しかし、コートに響いていたのは歓声ではなく、ボールが弾む音とシューズのスキール音──。
 無観客試合が“伝説”の幕切れとなった。
「誰のせいでもないですし、これはもう仕方のないことなので……。一つ言えるのは、これまで応援してくださった方々に、最後に自分がホームのコートに立つ姿を見せられなかったのが無念でならないということです」
 その胸中は察するに余りある。
 だが、悲嘆に暮れてばかりもいられない。彼には、クラブの代表取締役社長というもう一つの顔があるからだ。
 選手としての“花道”を奪った敵と、経営者としても闘わなくてはならない。
 しかし、その道もまた険しい。

北海道とバスケットボール

 北海道とプロバスケットボールクラブには苦難の歴史がある。
 2006年、北の大地でレラカムイ北海道というプロクラブが産声を上げた。
 同年、プロ化を目指して日本バスケットボールリーグ(JBL)が立ち上がったが、他に参画した7チームはいずれも実質的には実業団チーム。興行権を持ち、折茂らスター選手を獲得したのがレラカムイだった。
 しかし、4年後にチームは存続の危機に陥る。
 運営会社の経営悪化に端を発した混乱は、リーグをも巻き込んで泥沼の展開に。紆余曲折を経て、レラカムイは破綻した。
 北海道にバスケットボールを残したい──。
 そこで新たに設立されたのが、折茂を理事長に据えた一般社団法人北海道総合スポーツクラブ。
 だが、その前途も多難だった。折茂は当時をこう振り返る。
 「バスケットボールしかしてこなかった僕は、会社のことなど全く分からなかった。当然、一般社団法人もどういう組織か分からない。言われるがままの船出だった。
 だが、これが難しかった。物事が進まないのだ。理事に入ってくれた方々はそれぞれ仕事があり、当然、それぞれの責任を抱えていた。チーム作りに協力してくれるとはいえ、集まる時間を取ってもらうことが難しかった。実行したいことがあっても、承認してもらうことすらできない──そんな状態だった。
 一般社団法人ということで、金融機関からの援助にも限界があった。思い描いた様にはいかない現状、日に日に膨らんでいく借金。このままではダメだ──」(連載より)
【折茂武彦】どん底のとき、そばにいてくれる人はいるか?
 2013年、折茂は最後の賭けに出た。
「自身が責任を全て背負う」として、一般社団法人から株式会社へとクラブ運営を事業譲渡し、代表取締役として覚悟を背負ったのだ。だが、想いとは裏腹に、世間の目は冷たく、借金は増えていった。
 「スポンサーを探そうにも、(当時の)北海道の人たちはバスケットボールクラブにネガティブなイメージを持っていた。“あの潰れたところでしょう?”という目はなかなか変えられなかった。この頃は、毎月選手に給料が払えるか、不安で眠れない日々でした。特に月末は」
 それでも地域との絆だけは大切にし続けた。

地元に根差したチーム作りの成果

 特にブースター(特定のチームを応援する人たち)の存在は、折茂の原動力となっていた。
 「若い頃は“絆、なんだそれ?結果が全てだろ”と考えるような人間でした。それが北海道に来て大きく変わった。大変な時期でも応援し続けてくれる暖かさに触れたことは、その後の大きな財産になりました」
 少ない予算でやりくりする中、その想いを体現するために、駅前や学校でポスターやチラシを配り、選手もその先頭に立ったりもした。
 風向きが変わり始めたのは、2014年。レラカムイ時代を知る横田陽(現代表取締役CEO)が、東京でのビジネスを成功させた後にクラブに戻った。
 横田は、クラブを破綻させてしまった時の反省と東京での経験を生かし、まずは営業で圧倒的な成果を収める。そして、2016年のBリーグ開幕直前にCEOに就任した。
 当時、債務超過は2億4000万円近く残っていたが、手応えがあった。地元との絆を大切にしながら、より多くの「地元」を取り込むため、デジタル・マーケティングにも力を入れた。
 「バスケ観戦をしたことがないけれど、スポーツが好きな人にも足を運んでもらいたい、と。バスケはスポーツ観戦の中でも、もっとも面白いという自信があったんです。だから、その層を取り込む施策を打ちました」(横田)
 こうして、折茂・横田体制のレバンガ北海道は、株式会社化から4年後の2017年(7期)初めて黒字化を成し遂げ、債務超過を解消する2019年6月の9期には、3期連続の黒字化を達成。
 前年比137%増収とクラブとして着実に成長を遂げていた。
 特筆すべきは、地元との関係だ。スポンサーの割合は地元が実に約9割。
 そして、レバンガ北海道は、2018‐19シーズンは10勝50敗という成績でありながら、集客数はリーグ4位(平均入場者数3,637人)を誇った。
 ブースターたちの熱い“レバンガ愛”が、クラブを支えているのだ。
 地道に育んできた地元との絆が花を咲かせた証でもある。

2本柱に直撃した「コロナショック」

「本当に厳しい時代から、ようやく光が見えてきた段階(3期連続で黒字化)になってきていた。積み重ねてきたものが一気に崩れ落ちてしまった」