【小野真由美】「何かを得たければ、何かを諦めなければいけない」

2020/3/15
いつ競技を辞めるのか──。アスリートには、必ず決断しなければならないときが来る。女子ホッケー日本代表である小野真由美は、リオ五輪後にそれを決断。競技から退いた。しかし翌年に現役に復帰。長年寄り添った「ホッケー」との葛藤と今。
小野真由美(おの・まゆみ) 1984年生まれ。富山県出身。SOMPOケア株式会社所属。高校2年時に日本代表入りを果たし、2008年北京五輪、2016年リオ五輪に出場した。2007年から2017年まで現在のコカ・コーラレッドスパークスに所属し、3度の日本リーグ優勝に貢献。リオ五輪後に一度引退したが翌年現役に復帰し、現在は慶應義塾大学の体育会女子ホッケー部で指導しながら自身も日本代表としてプレーしている。

高2でホッケーを辞めるつもりだった

──まずはホッケーを始めたきっかけを教えてください。
小野真由美(以下、小野) 私が生まれ育った小矢部市という街は富山県のなかでもホッケーが盛んなところだったんです。⼩学校には野球場とサッカー場と並んでホッケー場があって、とても恵まれた環境でした。
 最初に始めたスポーツはサッカーと柔道でしたが、柔道は受け身が嫌いで途中でやめました。男勝りの性格だったので、男子ばかりのなかで休み時間や放課後もずっとサッカー。
 でも中学校に女子のサッカー部がなくて、それで10歳のときにホッケーを始めたんです。
──ホッケーはサッカーとルールが似ていますよね?
小野 脚を使うかスティックを使うかという違いだけで、ゴールを攻めて守るのは同じだったから自然と入ることができました。
 細かいテクニックとかは今でも下手くそなんですが(笑)、サッカーをやっていたときはパスに結構自信があったので、ホッケーをやるようになってからも、ストローク(※)に関してはサッカーのパスと同じくらい自信を持ってできていました。
 でも、ユニホームがスコートだったのは嫌でしたね(笑)。
※ストローク:スティックによってプレーされたり打たれたり、方向を変えられることによってボールが動かされること。(公益社団法人日本ホッケー協会HPより)
──その後、高校生で代表入りしましたが、その経緯は?
小野 高校2年のとき、ホッケー部の顧問から「日本代表の選考会があるから受けないか?」と言われたんです。
 でも当時、私はホッケーを辞めて教員免許を取れる大学に進学しようと思っていました。元々、ホッケーをずっと続けようという意思もあまりなくて、体育の先生になるのが小さい頃からの夢でした。
 それで「お断りします」と言ったんですが、先生から「もし次の子が呼ばれたときに行きづらくなるから、行ってくれないか?」と頼まれて。どうせダメだろうと思って行ってみたら合格したんです。
 ホッケーを辞めようと思ったときが、ホッケーを続けるきっかけになったんです。

ホッケー以外のことがしんどかった代表

──実際、代表に入ってみていかがでしたか。
小野 とにかくレベルの違いに圧倒されました。代表には大学や社会人の選手がいて、20歳を超えてくるとやっぱりホッケーそのもののレベル、スピードやテクニックまでが違って……合宿が地獄でした。いつも迷惑をかけてばかりいて、自分のいる場所ではないんじゃないかって、葛藤していました。
 でも当時、高校生で代表合宿に呼ばれたのは私だけで、それでメディアに取り上げられて……。「最年少で代表」ということがすごく苦しかったです。先輩も年齢が離れていたので相談相手もいない。居心地も良くないし、毎日地獄のようなトレーニングで……。
 (涙ぐみながら)今までとは違う環境に慣れず、代表を辞めたい、行きたくないとずっと思っていました。
──昔は上下関係が厳しい時代でした。ホッケーの世界もそうだったんですか。
小野 すごく厳しかったです。私が一番歳下なので更衣室にも入れずトイレで着替えたりとか、お弁当も室内ではなく外で食べたりとか。スタッフが少ないのでドリンクを作ったりボール集めなどもしなくてはいけない。ホッケー以外のところがすごくしんどかったです。
──それでも、ホッケーを辞めなかったのはなぜですか。
小野 アテネ(・オリンピック)のメンバーが発表されたとき、行けないとわかっていながらも落ちたのがすごく悔しくて……。
 2年前からオリンピック予選に連れて行ってもらっていたんですが、ずっと雑用係でした。
 ビデオを撮るのがメインで、練習も入れるときと入れないときがあったり、試合の戦評を書いたり、映像の編集をしたり、ミーティングの準備や買い出しの手伝いとか……。悔しい思いも、情けない思いもいっぱいしました。
 頑張って食らいついてきたのに、わかってはいたけれど、メンバーに落ちたのがすごく悔しかったです。
 だから、今度は絶対に自分がコートに立つんだって思って、北京までは続けようと思いました。
──悔しさをバネに前向きになれたのですね。
小野 そうですね。言葉にできないくらいのつらい学生時代でした。よく頑張ってきたなと自分では思いますが、やっぱり先輩たちの活躍している姿を見ると「羨ましい」「絶対に次は自分がここに」という思いにさせてもらいました。
 それで、北京に向けて全力を注いですべてを捧げていって。でも、北京では一瞬で終わりました(編集部注:日本の最終順位は10位)。

退いて気づいた選手であることの羨ましさ

──次のオリンピック、2012年のロンドン大会は出場しませんでした。
小野 そのあとロンドンに行こうなんてまったく思えませんでした。北京のときは24歳でしたが、次のロンドンの選考会には行きませんでした。
 もうメンタル的にも「次を目指せるはずないだろう」と。うまく気持ちを切り替えられるような器用な人間ではなかったので、ホッケーもやりたくないくらい、燃え尽きてしまった感じでした。
 気持ちが離れてしまったことと大きな怪我もあって、代表を辞退して日本で応援していました(編集部注:日本の最終順位は9位)。
──その後、ふたたびリオ・オリンピックを目指したのはなぜですか。
小野 当時、私は28歳でした。女性としてここからどうするかを考えていて……。10歳からホッケーを始めて20年近くホッケーをやってきて、今ここでやめていいのかを真剣に考えたときに、後悔するかなと。
 あとはいい歳なのに結婚もせず、なにをやっているんだ、という他人からの目がすごく気になったりとか。男性だったら(現役)続行だと思いますけど、女性だからこその悩みというか。
 でも女性であるよりも、アスリートとして後悔しない道を、私は選びたいと思いました。リオに行きたい、という素直な気持ちに4年を賭けようと思いました。
──リオ・オリンピックは32歳での出場となりました。
小野 チームで最年長でしたが、私の場合、ピークは31、32歳でしたから、チームのなかで一番フィジカルが強く、思うようにプレーができていました。年齢を言い訳に絶対しない、歳上だから手を抜くとかは絶対にしないように心がけていました。
 それでリオに出たんですが、でもまた粉々にされたというか、負けてしまいました(編集部注:日本の最終順位は10位)。
──リオが終わった2016年、一度は現役を引退しました。
小野 1年間休みました。
──オーストラリアのパースへ行かれたんですよね。
小野 はい。オーストラリアに行こうと思ったのは、英語を勉強しようと思ったから。
 ホッケーの試合中、日本はすごくアンパイア(審判)に舐められています。ホッケーでは、リファーラル(意義申し立て)をすることができるのですが、相手側が明らかな反則をしていても、それができなかった。英語ができていれば今の失点はなかったのに、という後悔があったので英語を話せるようになりたいと思って。
 パースには5か月間滞在しましたが、いい勉強になりました。それに、すごく楽しかった。みんなスポーツが好きで、時間があればみんな走っているし、公園に行って遊んでいます。
 今までホッケーばかりやってきて、家族と過ごす時間が本当に少なかったので、「家族と過ごすってこういうことなんだ」って、初めて休日を過ごしているという感覚を味わえました。“今を楽しむ”とはこういうことなんだって。
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──ホッケーを離れて、未練はありませんでしたか。
小野 オーストラリアから日本に帰ってから、アルバイトをしながら、慶應義塾大学の体育会女子ホッケー部を指導していたんですが、そこでホッケーの大事さを改めて感じました。
 部員はみんなスティックを握ったことがない子ばかり。普通の女の子や足が細い子でも頑張ってるその子たちを見ていると、すごく羨ましくなってきたんです。いいな、頑張るってすごい素敵なことなんだなと思いました。
「ビギナー同士頑張りたい」と思ってこの場所からスタートしましたが、教える立場になって、選手であることの羨ましさを感じました。選手を離れて初めて選手ってこんなに輝けるんだと。失って初めて気づくものが多かったんです。
 そんなとき、なぜか代表の選考会用紙が私にも届いたんです。
──それで代表復帰することに?
小野 はい。2017年11月のことです。
 その1か月前にホッケー協会から電話があって、「鳥取にホッケー教室に行ってほしい。他の選手はシーズン中で行けないからお願い」と言われて行ったのが、損保ジャパン日本興亜が主催するイベントでした。
 そのとき、当時のSOMPOケア(株)会長から「うちの社員になって、週末にホッケーの普及活動をしたらいいんじゃない?」と言っていただいて、今のSOMPOケア(株)に入ることができ、代表復帰も後押ししてくださいました。
──そのとき、どんな言葉をかけてくれたのですか。
小野 「後悔をしない人生を歩みなさい」と。「33歳?どうせダメでも一回行ってきなさい。そうしたら諦めがつくから」と。「どうせダメでも」と言ってもらえたことで気持ちが楽になりました。たくさんの方たちから「行ってこい」と背中を押してもらいました。
 選考会までの1か月間、身体を戻すことはできなかったのですが、奇跡的に受かりました。いろんな方のサポートがあって、またこうしてアスリート生活に戻れるようになりました。

35歳の今「後悔しない」ために

──これまでいろんな人生の分岐点があったと思いますが、なにかを決断するときに大事にしていることはなんですか?
小野 年齢を重ねていくたびに感じるのは、他人と比較しないということ。それが一番大事なんじゃないかなって。
 今の自分だから悩んでいるし、今の自分だから直面しているのであって、27歳のときとか、若ければたぶんそんなことでは悩んでいないと思います。
 他の人とすごく比較しがちで、劣っていると思いがちだけど、決断するときは、自分の物差しでちゃんと測れるようにしていますね。
──年齢が上がるにつれて自分の物差しで“今の自分”を測れるようになったと?
小野 そうですね。“今の自分”はどうなんだ、と。他の人の経験とかは情報として得て、参考にしますが、でもすべてが一緒かと言われたら環境や境遇は全然違います。
 まずは自分の気持ちに素直になること。それをきちんと見極めて、後悔しないほうを選ぶ。それでダメでも後悔しない。後悔しない生き方をしていきたいなって。それが今の自分なので。よく「なにもしないほうが後悔が残る」というじゃないですか。
 今までオリンピックを目指すときに、「本当にいま辞めて大丈夫なのか?」ということを自問自答してきました。その都度、本当の自分の気持ちを出さないと、自分に向き合えません。あとは、4年間をかけるってけっこう長いししんどい。実質3年だったりするのですが、けっこう(な時間や思いを)捧げなければいけません。
 言い方は良くないけれど、優先順位が他の人とは変わってきたりするんです。なにかを諦めなければいけない。『なにかを得たければ、なにかを諦めなくてはいけない』っていうのは、歳を重ねるごとに感じています。
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──小野さんにとっていまの優先順位は?
小野 今はもちろんホッケーだけど、今まで自分がしてきた判断は本当に多くの人々の支えがなくてはできませんでした。
 東京オリンピックも、SOMPOケアのみんなの応援がなければ目指せなかったし、いまトレーニングができているのも、大学のみんながいるおかげです。(編集部注:現在、小野さんは所属しているクラブはなく、慶應大学の女子ホッケー部を教えながら、男子ホッケー部と一緒にプレーしている)。
ひとりでは目指せないオリンピックなので、歳を重ねれば重ねるほど、ひとりではどうにもならないというのを実感しています。だから、(東京オリンピックは)最後にお礼を伝えるには一番の場所だなと思います。
──その東京オリンピックは5か月後(※インタビュー時)に迫りましたが、どんな大会にしたいですか。
小野 もしメンバーに選ばれたら……東京でスティックを置くことになるので、今まで一番できなかったこと、結果を出してみなさんに喜んでいただけたら、というのが私の一番の目標。
 すごく高い目標ですが、金メダルだったらきっと誰もが納得してくれると思っています。ただ出場するだけだったらホッケーの環境はなにも変わらないことを何十年も経験しているので。
 やっぱり結果を残して今後の若い選手にもつなげたいと思うし、頑張れるうちは頑張ってほしいという姿を他の選手に見てもらいたいです。日本にホッケーがあるんだというのも多くの人に見てもらいたい。いろいろなことを伝えたいです。
 私は年齢も年齢なので、若いときは自分が出られたらそれで良かったのですが、今はもう自分がグラウンドに立つというよりなにかを返したいという気持ちが強いんです。
 それに、自分を選んでくれたアンソニー(・ファリ―監督)にも、いい色のもの(メダル)をあげたいですから。
──どんな監督ですか。
小野 じつは、私が代表に復帰したいと思ったのも、彼が代表監督になることが大きな理由でした。
 戦術、戦略、スキルにおいて、ホッケーを教えられる人は、これまで日本にはいませんでした。でも、アンソニーが監督なら本当の実力を見てくれる。実績もある監督が、「金メダルが獲れると思って僕は日本に来ました」と言っている。彼の自信をそのまま自分たちの自信にしてやっていきたいという気持ちでいっぱいです。
 いつも選手と同じ目線に立ってくれている監督で、私も「あなたもフラットでいなさい」と言われています。「いつ若い子としゃべった?」とか聞かれますし。
 私は昭和の人間ですごく嫌な思いをしてきたので、これからの子にはそんな思いをしてほしくない。上下関係は最低限守らなければいけないですが、それ以外では自由にやってほしいです。しっかり自分たちの色を出せる環境にしたいと思っています。
──選手と監督の信頼関係はやはり大事ですか。
小野 先日、柔道の井上康生監督が記者会見で(東京オリンピックの)代表選手の名前を読み上げた後、涙を流していたじゃないですか? それを見て、私も涙がこみ上げてきました。監督の気持ちがすごく伝わってきました。
 選手も同じような気持ちなんだろうなって。選手と監督が強い信頼関係で結ばれているんだなって。今のホッケーの選手たちも、みんなアンソニーのことが好きなんです。チームの雰囲気もいい。
 オランダ、アルゼンチンの2強の牙城は高いですが、とにかく奇跡を起こすために頑張ります。
(執筆=聞き手:小須田泰二 編集:石名遥 撮影:鈴木大喜 デザイン:黒田早希 プレー写真:MARUYAMA Kohei/SportsPressJP ※SOMPOケア(株)提供)