【折茂武彦】どん底のとき、そばにいてくれる人はいるか?

2020/3/20
49歳、現役最年長にしてチームの社長でもある折茂武彦の連載。日本バスケとビジネスの一戦で躍動し、今シーズン限りでの引退を決めたレジェンドの流儀とは。第3回の今回は、「人」と「信頼」が繋ぐボールと組織、そして北海道への「想い」について。

オールスターでの「僕のすべて」

ありがとう──。
あんなふうにファンの皆さんにこの言葉を発したのは、おそらく初めてだ。
もちろん、感謝の気持ちはその機会がある度に表してきたが、ああいう形で想いを伝えたことはなかったと思う。
用意していた言葉ではなかった。
1月にレバンガ北海道の本拠地「北海きたえーる」で行われたオールスターの最後の挨拶で、口を衝いて出た。
北海道、ありがとう──。
前回も書いたが、僕はバスケットボールを楽しいと感じたことは一度もなかった。
勝たなければならない、数字を残さなければいけない……。さまざまことを背負いながらの、まさに戦いの日々だった。
しかし、あのオールスターでプレーした時間は楽しかった。
27年目のシーズンにして、初めて味わった感覚だ。
Bリーグになってからは、自分としては最初で最後となったオールスター。
そこにB.BLACKのPG/SG枠の第一位となる投票数で選出してもらい、選手たちも敵味方なく敬意を示してくれた。お祭りのような空気感の中で、あれだけの選手たちとプレーができ、MVPも獲ることができた。
北海きたえーるの雰囲気も、普段とは一味違っていた。
特別な時間だった。
引退を前にした僕への、最高の贈り物だった。
こんなプレゼントをくれるんだ──。
嬉しさから、自然と出てきた言葉が「ありがとう」だったのだと思う。
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自分らしいプレーもできた。中でも、開始11秒で決めた先制点のプレーには、僕の全てが集約されていたと思う。
相手の富樫勇樹が僕につく。そこに竹内公輔がスクリーンにくる。そのスクリーンを使って富樫のフェイスガードをかいくぐり、シュートへ。
得意なプレーといわれるが、本当に僕がやってきたことの全てといっていいくらいのプレーだった。

NBA出身元HCに言われた言葉

今季は出場機会が限られているが、そこで“打ち切る”ことができたのも大きかった。
打ち切る──。
シューターとして最も大切にしていることだ。
僕の仕事はシュートを打つことだ。10本外そうが、20本外そうが、とにかく打たなければならない。
そこで躊躇することは、仕事を放棄するのと一緒だ。相手の驚異になれないし、そもそも僕がコートにいる意味がなくなる。
だから、何があろうと打ち切る。
もちろん、プレッシャーはある。それでも打ち切れるのは、みんなが信頼を寄せてくれるからだ。
「折茂が外して負けたんだから、しょうがない」
選手にも、観ている人にも、納得してもらえるという自負がある。
初めからそうだったわけではない。悔しい思いをしながら、全てを積み重ねてきた結果だ。
どれくらいの時間がかかっただろう。本当に打ち切れるようになったのは、30歳の手前くらいだったと思う。
僕も当然、シュートを外せば落ち込む。かつては「もう入らないんじゃないか」「もう打ちたくない」という思いに駆られたこともあった。
そんなメンタルを変えてくれたのは、トヨタ時代のヘッドコーチ、ジャック・シャローだ。
NBAから来た彼は、こう言ってくれた。
「何本外そうがいいんだ。10本連続で外しても、お前には10本連続で入れられる力がある。だから、打ち続けろ。下を向くな。その必要はない」
僕はシュートを外しても引きずらなくなった。
それまでは、前半に調子が悪いと、そのまま崩れてしまうことが多かった。だが、その言葉を心に留めてからは、強いメンタルをキープできるようなった。
これは本当に大きかった。大げさだが、彼の言葉で僕は救われた。
「あいつなら、打ち切ってくれる」
打ち続け、少しずつ信頼を積み重ねた。そうすることで人が動き、大事な局面や苦しい時にボールを回してくれるようになった。
周りからの信頼は責任感を生み、責任感は打ち切る想いをさらに強めた。
現代はデータ社会だ。バスケットボールの世界もそう。さまざまなデータを分析して戦術、戦略を考えていく。これは当たり前のことだ。
だが、最終的にプレーするのは「人」だ。そこに想いや信頼、信用がなければ、絶対に人は動かないし、パスも回って来ない。
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責任を取る体制を作り、お金を集める

これは、会社でも一緒だ。
お金を生み出すのも、結局は「想い」と「人」なのだ。
僕はかつては「お金が助けてくれる」と考える人間だった。
お金さえあれば、なんとかなる。実際、そうなのかもしれない。だが、果たしてそれだけでいいのか──。そう考えるようになったきっかけは、レバンガ北海道の運営に携わったことだ。
既にこの連載で書いたが、レバンガ北海道の経営者になってから、僕は地獄を味わった。経営がまったく回らず、借金も2億4000万円まで達した。
睡眠薬を飲んでも眠れず、電話が鳴ると気分が悪くなり、テレビから聞こえてくる話し声さえ怖くなる。そんな日々だった。
発足当初、レバンガ北海道は一般社団法人だった。大学の一つ上の先輩で、当時のJBLの専務理事・吉田長寿さん(現・B3リーグ理事)と立ち上げた組織で、僕はその理事長になった。
一般社団法人にしたのは、責任の所在を分散し、リスクを減らすという吉田さんの配慮からだった。
バスケットボールしかしてこなかった僕は、会社のことなど全く分からなかった。当然、一般社団法人もどういう組織か分からない。言われるがままの船出だった。
だが、これが難しかった。物事が進まないのだ。
理事に入ってくれた方々はそれぞれ仕事があり、当然、それぞれの責任を抱えていた。チーム作りに協力してくれるとはいえ、集まる時間を取ってもらうことが難しかった。実行したいことがあっても、承認してもらうことすらできない──そんな状態だった。
一般社団法人ということで、金融機関からの援助にも限界があった。
思い描いた様にはいかない現状、日に日に膨らんでいく借金。
このままではダメだ──。
僕は最後の賭けに出た。レバンガ北海道を株式会社にしたのだ。
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しっかりと自分が責任を取る体制を作り自分が決断する。その上で資金援助をお願いしに行く。それしか道はないと思った。
本当に自分を必要としてくれた北海道に、なんとか恩返しがしたい──。
それが当時の想いだ。
だから、必死で訴えた。
全ての責任は自分が取る。借りたお金も必ず返す。
「だから、乗っかってください」
僕を信用し、想いに賛同してくれる人たちが現れた。今、レバンガ北海道があるのは、その方たちのおかげだ。

お金の関係より強いもの

助けてくれたのは、人だった。お金は、その方たちとの繋がりと想いから生まれたものだ。
他の会社からいくらお金を積まれても、僕はこのとき、助けてくれた人たちとのスポンサー関係を大切にしてきた。
経営者として甘いと思う人もいるかもしれない。では、倍のお金を積まれたとして、1年でスポンサーを降りられたらどうするのか。
お金だけの関係は弱い。
想いや信頼による繋がり、そして想いがある人たちが集まった組織は強い。
そのことを知っているから、僕はこのやり方でいいと思っている。
調子がいいときに周りに人がいるのは当たり前。どん底に落ちたとき、そばにいて、支えてくれる人がいるかどうか。
「この人のためなら頑張れる」。理想は、そう思ってもらえる存在であり続けることだ。
いつ、どこで、どんな人と出会うか。これも人生を左右する要素の一つだ。僕にとってベストなタイミングで、最高の出会いが訪れたのが北海道だった。
人に救われたこともそう。自分のことしか考えていなかった僕という人間を、ここまで変えてくれたもの北海道の人たちだ。
現在、新型コロナウイルスの影響が様々な影響を及ぼしている。
Bリーグ、そしてレバンガ北海道も例外ではない。
リーグ戦の延期や無観客での試合開催が決定となるなど、Bリーグは難しい判断を迫られている。
「北海道から明日の“ガンバレ”を」
北海道から、北海道の人たちへ、そしてさらにたくさんの方へ明日への活力を届けることが、“レバンガ”北海道のスローガンだ。
このような難しい状況の中でも最後まで諦めないプレーをコート上で見せることで、少しでも皆さんに頑張る力を届けられることを願っている。
(構成:岡野嘉允、写真:レバンガ北海道、GettyImage、デザイン:松嶋こよみ)