【マラソン】大迫傑が持つ「自分をコントロールする」技術

2020/3/3
大迫傑の力走は、日本ナンバー1の底力をまざまざと見せつけるものだった。走りの裏側にある「自分をコントロール」する術とは。スポーツジャーナリストの佐藤俊氏がその秘密に迫る。

大迫が見せたスゴさと世界との距離

東京マラソンで、大迫傑(NIKE)が2時間5分29秒で日本人トップとなる日本記録を更新し、東京五輪のマラソン男子代表の権利をほぼ手にした。
大迫の32キロ以降の走りは素晴らしかった。
まるでここからが本当のレースのスタートと言わんばかり、それまで第2集団にいた井上大仁(MHPS)らに迫っていくと、アッという間に前に立ち、そのまま差を広げていった。期待された設楽悠太(Honda)ら他選手がもうひとつ伸びも強さも見せられないなか、ただ大迫の強さだけが目立った。
しかし、東京五輪を見据えると手放しで喜んでばかりもいられない。
このレースで連覇を達成したビルハヌ・レゲセ(エチオピア)のタイムである2時間04分15秒は、世界では40位内にギリギリ入るレベルだ。
現在、世界最高記録は、エリウド・キプチョゲ(ケニア)が2018年ベルリンマラソンに出した2時間1分39秒である。世界におけるマラソンはケニア、エチオピアのアフリカ勢が圧倒的に強く、2時間2分台、3分台で戦わないと勝てない時代なのだ。
瀬古利彦マラソンシニアディレクターが、レース後、「このようなレースをしているうちはメダルは難しいという正直な思いはある」と語ったように、現状では東京五輪のマラソンで日の丸を掲げることは難しい。
大迫の勝利に水を差すわけではないが、世界という現実は非常に厳しく、かなり先を走っている。
8月の東京五輪マラソンに向けて、ここから急激に強くなるのは難しいが、大迫ならばレベルをさらにもうワンランク上げられると思う。
というのも、これまで大迫は「これをやれば絶対的に勝てるんだ」という強い信念と自信を持って練習に取り組み、結果を出してきたからだ。

ライバルが脱帽した大迫傑のスゴさ

普通は、こうは簡単にいかない。練習を重ねていくなかで、果たしてこれでいいのかと不安に思うことは誰しもあることだろう。
だが、大迫はプランを決めたらやり切る。
東京マラソンを迎えるにあたり、今回、大迫は昨年12月中旬からケニア・イテンで2カ月半、高地合宿を行った。標高2400メートルの「ランナーの街」で数回一緒に練習をした神野大地が「これが2時間4分5分台を狙う選手の練習なんだというのが分かった」と語ったように、相当に質の高い練習をこなしていたのだ。
練習メニューはコーチと相談して決めるが、1週間のマイレージやポイント練習の設定タイムについて詳細に出し、ほぼ休みなく練習する。
そこで自分の身体と対話し、常に健康体を維持している。ケニアでは日本食が恋しく、神野の合宿先によく顔を出して一緒に食事をしていたそうだが、練習に関しては妥協を許さずにメニューを消化した。
これだけやってきたんだから負けるはずがない──。
そういう自信がレース前の記者会見にも満ち溢れていた。「2時間6分台を目指します」とあまり覇気がなかった設楽とは対照的に「自分のレースに集中します」と、いつも通りの姿勢を見せたのである。

残り4キロでピッチを上げなかった理由

そこには、大迫独自のレースに対する考え方がある。
大迫はよく「自分目線」という言葉を使う。例えば、レースにおいては「周囲の相手に視点を置いたことがほとんどない」という。
つまり、他選手を意識してレースを展開するのではなく、自分のレースに集中して走ることを一番に考えているということだ。
今回もライバルとして設楽や井上の名前が挙げられていたが、実際のところ、大迫自身はそれほど気にしていなかっただろう。
相手よりも自分がこれまで培ってきたものを出し、“どれだけ自分の走りができるか“に集中していた。
そしてレース本番では大迫がいう「自分の身体をコントロールする」ことを重視している。
勝利を意識してしまうと力んで走ってしまったり、肩が上がったり、走りに影響が出てしまう。そのとき、客観的に自分の走りを判断することで、自分が今レースで何をすべきかを明確にし、それを実行しながら走る。
自分で身体をコントロールできなければ、距離が増すごとに出てくる問題にしっかりと対応して走ることができないのだ。
「身体をコントロールすることはイコール気持ちをコントロールすることにもつながる」
そう言うように、身体をコントロールすることで精神的な安定を生み、心理的に一番いい状態で走ることができるという自信が、大迫にはあった。
今回のレースで「新記録を意識したのは残り4キロぐらいから」と大迫は語っていたが、そこで一気にピッチを上げずに冷静に走ったのは、意識してしまうと走りに力みが出て余計な力を使ってしまうと理解していたからだろう。
実際、35キロ〜40キロのタイムは15分15秒と前の5キロのラップより19秒遅いが、そこは自分の身体と気持ちをしっかりコントロールし、残り2.195キロからのスパート、もしくは大幅なタイムロスをしないように備えているのが分かる。
そのラスト(2.195キロ)はスパートこそできなかったが6分38秒とタイムでは4位をキープし、日本記録更新に結び付けた。
ちなみに身体をコントロールするというのは、いきなり誰でも簡単にできるものではない。
大迫も高校時代はなかなかできず、誰かがスパートしたらそれに付いていって疲弊することがあった。
自分の身体をコントロールできるようになるには、普段の練習からレースに近い状況で目的意識を持って取り組むことが必要になる。

自身を保つ。思い描いたレース展開

レースにおいて、大迫は勝つために具体的なレースプランを組み立てている。とりわけメインとなる大きなレースについては綿密に考えるという。
「自分がこういうレースをすると決めたとき、周囲がどう動こうと関係ないくらいの気持ちで、常に冷静に待つ時は待つと意識しています」
今回のレースでのその考えが、垣間見えたシーンがあった。
23キロ地点から井上たちのグループから、大迫は後方に少し離れていった。1回、差が開いたときは「ダメかもしれない」と大迫は語っていたが、同時に前の選手たちが落ちてくるだろうという“読み”と、“勝負は35キロ過ぎ”という考えは、しっかりと持っていたはずだ。
ハイペースでのレース展開を予想し、起こりえることを理解していただろう。
ここでも大迫は、身体をコントロールすることで気持ちを切り替えている。
大迫が感じたのは“自分が遅い”ではなく、井上たちの“集団のペースの変化”だった。レース後、「離れたとき、もう1回追いつくぞ、というよりは、1回離れてちょっと休んで自分のリズムでという感じでした」と語っていたが、集団のペースが少し上がり、“自分の感覚として少し速い”というイメージがあったのだろう。
昨年のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)では自らが行き過ぎてしまい、後半の勝負どころで伸びを欠いた。
今回はその反省もあり、無理して前に付いて行って脚を使い、後半に脚が残っていない状態を作るよりは、ここで自分のペースを作り直し、前が落ちてくるのを冷静に待つことを選択したのだ。
実際、このあと5キロにわたって徐々に井上たちの集団のペースが落ちて、逆に自分のペースを貫いた大迫が本来の走りを取り戻し、32キロ付近で日本人トップに立つことに成功している。
今回もレース途中、いろんなことが起きたが、そこでしっかりと自分の身体とメンタルをコントロールし、自らの日本記録を更新する快挙を達成した。おそらく展開的にはほぼ事前に考えたレースプラン通りだったはずだ。

常に「自分目線」で「1番」を獲りに行く

しかし、世界との距離(タイム)は遠い。
だが、大迫はそれほど気にしていない。
「普段から海外を拠点にしてやっていますし、今回ケニアに行ったこともあって(メディアの)みなさんが思うような海外との差というのはなく、ただ単純に自分が速くなっていく。それを追及していくことを考えている。今回、結果的に4番だったので、まだまだ改善点はあるけど、自分を信じて準備していきたい」
この言葉から大迫のランナーとしての矜持が見える。
大迫が他のランナーと違ってちょっとミステリアスで輝いて見えるのは多くを語らないのもあるが、あくまでも「自分目線」で常に「1番」を獲りにいく姿勢を崩さないからだ。
そうしたブレない強い気持ちとプライドがなければ、日本だろうが世界だろうが戦えない。海外に拠点を置いて活動し、世界との距離を肌で感じている大迫は、それが世界と戦うために不可欠なものであるということを理解している。
より速く走るためのプランはもう考えられているだろうし、これからさらに自らを鍛え上げていくだろう。
この夏は、さらに強さを増した大迫らしいレースが見られるはずだ。
(執筆:佐藤俊、編集:小須田泰二、デザイン:松嶋こよみ、写真:GettyImages)