【折茂武彦】元日本代表監督に「騙されて」伸びた選手寿命

2020/2/4
49歳、現役選手にしてチームの社長でもある折茂武彦の連載。オールスターではB.BLACKのPG/SG枠で最高得票数を獲得し選出され、MVPにまで輝いた──そして今シーズン限りで現役を引退する。第2回の今回は、北海道以前を振り返る。

バスケットを楽しんだことはない

アスリートはよく、「楽しむ」という表現を使う。
だが、僕はバスケットボールを楽しんだことは一度もない。「楽しい」と感じたこともない。
常に「戦い」だった。
コーチや先輩たちの教えもそうだった。
「相手チームと何をヘラヘラ話してるんだ!」「常に戦闘モードでいけ!」
相手を倒さなければ上には行けない。
僕にとって、戦うことは当たり前のことだったのだ。
時代は変わったのかもしれないが、今回は一昔前の「戦いの日々」にスポットを当てたいと思う。
「負けのメンタリティー」が染みついている──。僕が入団した当時(1993年)のトヨタ自動車は、そんなチームだった。
前回も書いた通り、あの頃の僕にとっては「結果」と「数字」が全てだった。それが自分を「必要としてくれた人」たちへの絶対的な答えだったからだ。
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僕自身は入団1年目から日本代表に定着し、3年目からは「契約選手」となって給料も上がっていった。個人的には、上手くいっていたと言っていい。
でも、相変わらずチームは「弱小」のままだった。勝つことに対する執着がない。
要は「戦えていない」のだ。
「負け続けるなんて、ありえない」
入団して5年目に、僕は行動を起こした。チームの「改革」に乗り出したのだ。
まずはチームの意識を変えなければならない。そのためには「勝つメンタリティー」を持つ選手が必要。
「戦える選手」だ。
片っ端から声を掛け、集め始めた。でも、たかが一選手がやることには限界があった。
そこで、クラブの顧問に訴えた──「優勝したい」と。
顧問は、バスケットボールについての熱い話ができる人だった。そしてさらに、会社での肩書は副社長。予算を提案できる立場にいた。
そんな方への直談判だ。周りからは「なんだあいつ」と思われていたことだろう。実際、周囲の迫力はすごかった。役員室に行くと、部長クラスの方々が書類を持ってずらりと並んでいる。その中で副社長とバスケの話をする……あのときの情景を思い出すと場違い過ぎてちょっと笑える。
でも、それくらい僕は本気だった。副社長も力を貸してくれた。改革は一気に進んだ。優秀な外国人コーチと選手を呼び、選手たちの住むところも用意され、専用アリーナもできた。それはすさまじい勢いだった。
当然、チームも変わっていった。改革に乗り出してから4年、ついにスーパーリーグ優勝──「日本一」の座にたどり着くことができた。
その後も、僕が在籍している間にスーパーリーグを2回、天皇杯を1回制することができ、常勝軍団と言えるまでになれた。
実は今「アルバルク東京」が使っているクラブハウスも、副社長と僕が実現させたものだ。今では誰も知らないだろうけど(笑)。
それはさておき、それだけ「チーム作り」は大切だということだ。環境を整え、強くなれば、自然と「勝つメンタリティー」を持つ選手が集まり、さらに強くなるという循環が生まれる。
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チームでスタメンを外れ選ばれた日本代表

自分の給料も「改革」の一つだった。「バスケットボールの価値を上げたい」「バスケットボールで飯が食えることを示したい」。前回も書いたように、その想いは強かった。
折しも、「契約選手」が僕に続いて出始めた頃。実は、周りのチームからクレームを受けていたらしい。「折茂にそんなにあげちゃうと、こっちも大変になってくる」「全体のバランスを考えてくれ」といったものだったと言う。
一方で、僕の年齢は30代後半に差し掛かっていた。チームに優秀な選手が集まってきたこともあり、スターターの座を追われることも多くなっていた。
「もう、辞めようかな」──。そんな考えが頭をよぎっていた2006年、転機が訪れた。
当時の日本代表のヘッドコーチ、ジェリコ・パブリセヴィッチに声を掛けられたのだ。「代表に戻って、力を貸してくれないか」。
2006年は、日本で世界選手権が行われる年だった。
当然、断った。チームでは20分ほどしか試合に出ていないのだ。「厳しい」と評判だったジェリコの練習についていけるはずはないと思った。でも、ジェリコは会うたびに説得してきた。「お前は特別メニューでいいから」と。
そんなに必要としてくれるなら……。
待っていたのは、初日から若手と同じ、マックスのフルメニューだった(笑)。
ジェリコは言った。
「お前だったらできる」
あとで聞けば、「折茂ができるのに、お前らができないわけない」。そうして、若手をガンガン絞ることがジェリコの思惑だったのだ。
ジェリコの元でシューターが育たなかったことも、僕が呼ばれた要因の一つだった。「バックアップでいい。だから助けてくれ」と。
いざ、世界選手権が始まってみると、全試合スターターで起用された。しかも、全ての試合で2桁得点を取ることができた。最終的にあと1回勝てばベスト16という結果だった。
「あれ?」と思うと同時に、再び戦うスイッチが入った──「まだ、できる」。
人間の体は面白い。20分しか試合に出ていないと、「20分の体」になってしまうのだ。これは経験したからこそ、確かに分かる。
僕がこの歳まで現役を続けられた要因の一つは、間違いなく試合に出られているからだ。出続けているからこそ、試合勘と体力を維持できている。
20分しかもたなかった体力を35分まで持たせるようにするときは、少し辛かった。だが、35分間、出続けていると自然と「35分の体」になる。それを分からせてくれたジェリコには、本当に感謝しかない。
北海道に日本初のプロチームができたのは、そんなときだ。名前は「レラカムイ北海道」。
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レラカムイには、僕の同級生でトヨタ自動車、日本代表のアシスタントコーチを歴任した東野智弥(現日本バスケットボール協会技術委員長)が関わっていた。
そんな彼に、「ちょっと助けてくれ。チームに来てくれないか」と口説かれた。
再び入った「戦いのスイッチ」。自分があとどれくらいできるか。それを試すまたとない機会だった。
次回は北海道での「戦い」の日々を書きたいと思う。
(構成:岡野嘉允、編集:黒田俊、写真:レバンガ北海道、GettyImage、デザイン:松嶋こよみ)