【末續慎吾】「根性」「気合い」という前近代的なモノを捉え直す

2020/1/9

小さな日本人が世界で勝つために

今年は、オリンピックイヤーです。
私たちは再び世界のトップクラスを目にし、揺るぎなき「一流」がどんなものであるのかを知ることになります。
よく言われることですが、日本人は世界の中で体格的に優位であるとは言えません。勝ち抜くのは簡単ではない。
極端な言い方ですが、モスキート級がヘビー級に立ち向かう──そのくらいの差がある競技もあります。
短距離はそうでした。
一方、昨年はラグビーワールドカップが日本で行われ日本代表が大躍進をしました。ボクシングでも井上尚弥選手がドネア選手を倒した試合は大きな反響がありました。
「日本」が世界でその強さを証明してくれたわけです。
その姿を見て私は、「小さな日本人が大きな世界」を相手に戦うときに必要なことに思い至りました。
「気合い」と「根性」です。
古臭い言葉で、時代錯誤と思われるかもしれませんが、もう少しこの言葉を見直す必要があると思ったのです。
末續慎吾が考える「これから強くなる」アスリートの条件

「大は小を兼ねる」アスリートの世界

私がメダルを獲得したパリ世界陸上以前の記憶です。
海外のトップランナーたちと一緒に走る機会が幾度となくありました。目の当たりしたのは、何本走っても涼しい顔でいて、その最中もリラックスしている一流たちの姿です。疲れているはずなのに、100Mだけでなく、200Mもリレーも出ている選手がいる。
はっきり言って太刀打ちできないと感じました。
相当なトレーニングをしていないと実現しえない領域です。
私はこの差を認めないといけないと思いました。
「力では勝てない」。
大は小を兼ねると言いますが、基本的に持っている能力において「小さい」私が勝つものは存在しない。
ではどうすれば勝てるのか。同じ土俵に立てるのか──。
人は、自分以上のサイズ、強いものに対峙したとき「危険だ」と判断し「恐怖」を感じます。これは一般的な感覚として理解してもらえると思います。
アスリートとして問題なのは「体が恐怖」を感じることです。
私の感覚として、「頭で感じる恐怖」と「体で感じる恐怖」はまったく別物です。前者はトレーニングなどを通してコントロールする方法があるでしょうが、後者は勝手にそうなってしまうアンコトローラブルな存在。
そして当然ですが、体が動かない、つまり恐怖を感じてしまえば、小さきものが世界で勝つことはできないのです。
どうすれば「体の恐怖」を防ぐことができるか。
理論や技術で補う?
根本的な解決策にならないでしょう。それらは情報でしかありません。体の恐怖に対して簡単にフリーズしてしまいます。
メンタルトレーニングをする?
これもまた違います。先ほども触れましたが、頭と体で感じる恐怖は別物なのです。いくらリラックスしようと努めて、頭の中では恐怖がなくなったと思えても、「本能的に」体が恐怖を感じてしまうことまでコントロールはできません。
理論や技術に傾倒しても、試合直前にリラックスしようなどとメンタルで勝とうとしても、彼らには追いつかない……。
誤解がないように言いますが、理論も技術もメンタルもとても大事です。しかし、世界で戦いを挑むには、それだけではダメなのです。
大きなものに挑むために、どうしても感じてしまう「体の恐怖」を乗り越える。
──私は「恐怖と体」を向き合わせようとしました。
「恐怖」を知ろうと考えたわけです。
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恐怖との戦いと「限界」を乗り越える

「恐怖」とは「限界」との戦いです。
「もう無理だ」と思う瞬間は誰にでもあります。それは「心理的にもう無理だと思う精神的限界」と「体がしんどくてもう無理だと思う肉体的・生理的限界」の2つに分けられます。
アスリートは、この限界──「限りある自分の世界」を超えていかなければ、勝ち残っていくことができません。
多くの場合、精神的限界が先に存在します。つまり「頭で感じる恐怖」が先にやってくる。
「ああ、もうメンタル的につらい」と思いはするけれど、「肉体的にはまだできる」ように感じる、あの感覚です。
しかし「体と恐怖」を向き合わせるために、私はその順番を逆にしました。
精神的な限界を肉体的限界の上位に置く。
頭で恐怖を感じる前に、体で恐怖を感じる。
そのことによって、体への恐怖を拭い去る術を身につけようとしたわけです。
非常に曖昧な境界ではあるのですが、精神が肉体を超えてしまっている状態とも、肉体が後で追いついていくあり方とも言えます。
目指すところは、頭より体が先に動く状態。まず体が「大丈夫だ」と(自身に)信号を送るアスリートでした。
随分と前置きが長くなりましたが、ここで「気合い」や「根性」が重要になります。
精神的な限界(恐怖)が上回っているので、肉体を壊すことができてしまいます。当然ですが、そこにはある種の危険性がある。
これをいわゆる「気合」や「根性」と言います。
限界を乗り越えようとするときに、頭ではわからない、体が発揮してくれる力です。
臨んで行くにはあまりに怖いもの。ただ、それを乗り越えた数が多ければ多いほど、アスリートを強くしてくれるもの。
長い間、アスリートを続けて言えることはこの恐怖を乗り越えた回数が多ければ多いほど、世界と戦えるということ。そして、世界のトップ選手でさえそれを乗り越えてきている、という事実です。
アテネ五輪では、100M、200M、400Mの金銀銅メダルをアメリカ勢が独占した。

「気合い」や「根性」の論理化

ラグビー日本代表や、井上尚弥選手は、こうした恐怖を幾度となく乗り越えたのだと思います。
そして特に重要だったのが、この「気合い」や「根性」に論理性を持たせたこと。
つまり、感覚的で、ときにネガティブなイメージを含めてもつこの観念を、言語化し納得した状態で利用し、限界を超えた(恐怖に勝ってきた)のです。
ここまで読まれた方は「なんだ根性論か」と思われたことと思います。しかし、限界を超えていくためには、どこかのタイミングでこの古臭い要素を必要とします。
日本にある一つの問題はこの言葉の持つニュアンスです。
「気合い」や「根性」といった、ある種乱暴なイメージが、もっと洗練された知的な言葉に置き換わらないといけません。
実際に限界を超えるときに必要な、必ずトップアスリートが体感している感覚を、古臭いイメージだからと言って「不要」としてしまうことは、それこそアスリートの寿命を縮める危険をはらんでいます。
さて、ではこの「気合い」や「根性」に論理性を持たせるとはどういうことでしょうか。
ここでは「勇気」と呼ぶことにします。
それは日々にある「限界」の設定の仕方です。「体の恐怖」を感じる段階を、細かく分けていく。勇気が必要なステップを少しずつ登らせていくことで、アスリートも納得した上でトレーニング(や限界という恐怖)に向き合っていけます。
井上尚弥選手のトレーナーはお父さんです。
選手自身をよく知る指導者がいると、この限界の設定を非常に上手に作ることができるように思います。
多くの場合、この「勇気」を過剰に要求する=パワハラという問題の構造は、限界をいきなり最上位に持っていくことによります。
あまりに高い限界(恐怖)を示し、到達するために「勇気」を求める。
アスリートにとってみれば、ただ「怖いだけ」です。
その反動で台頭してきたのが、「楽しむ」というあり方でしょう。
アスリート自身が「楽しむ」ことで成長を続け、コンペティションでも結果を出せる。実際、楽しそうにプレーするアスリートは魅力的です。
指導者側も、いかに「楽しく」、意欲的にトレーニングや練習に取り組めるかを工夫して「アスリートを高みに導こう」とするようになりました。
「パワハラ」に代表される前近代的な指導をするよりはよっぽど素晴らしい世界がやってきた。間違いなくそう言えます。
しかしここで、少し立ち止まって考える必要があります。
果たして「楽しさ」だけで勝つことはできるのか。
モスキート級はヘビー級と渡り合い、打ち負かすことができるのか。
繰り返しますが、トップアスリートは「恐怖」を何度も乗り越えてきている世界で戦うのです。
重要なことは「恐怖」と「楽しさ」の両立ではないでしょうか。
これからの時代、こうした論理化は非常に重要な要素になっていくと思います。次回、この辺りについてもう少し深く考察してみたいと思います。
(構成:黒田俊、デザイン:九喜洋介、写真:getty image)