【バロンドール】「メッシ・ロナウド」時代はなぜ生まれた?

2019/12/2
バロンドール。サッカー界に燦然と輝くこの賞のルーツをご存じだろうか。日本人で唯一の投票委員(男子)であるジャーナリスト田村修一氏がその歴史を紐解く。

世界的権威ある賞を作った「雑誌」

10年間続いたロナウド=メッシ時代は、本当に終焉したと言えるのか。現在34歳のクリスティアーノ・ロナウド、32歳のリオネル・メッシは、これからもトップ5やトップ10に名前を連ねていくのは間違いない。
だが、受賞となるとどうか。
昨年のルカ・モドリッチのような絶対的な本命が不在の今年は、FIFA最優秀選手賞を受賞したメッシも最有力候補のひとりではあるが……。
昨年は11年ぶりに、ロナウド、メッシ以外の選手が選出された。
そもそも、なぜバロンドールなのか。
フランス・フットボール(以下FF)といういち雑誌の表彰にすぎないバロンドールが、どうしてFIFA最優秀選手賞をも凌ぐ価値と権威を持つのか。
答えは極めてシンプルである。
バロンドールこそはサッカー界における世界最古の国際的な個人表彰であり(当初はヨーロッパの選手のみを対象としたヨーロッパ最優秀選手賞)、ヨーロッパサッカー界、とりわけサッカージャーナリズムとビッグクラブ(特にラテン諸国の)が全面的に協力することで、権威づけに貢献してきたからである。
企画が立ち上がったのは1955年。このときFFは、発行部数が落ち込み休刊の危機に直面していた。
当時のFFは、レキップ紙(同じ出版社が発行するスポーツ新聞)の記者が記事を書き、編集にも携わっていた。ひとつの編集部が、スポーツ新聞とサッカー専門誌の両方を発行していたわけだ。
記者たちは休刊に反対だった。
サッカーの記事は雑誌がなくなっても新聞に書ける。しかしページ数は少なくスペースも限られている。しかも今日のように毎日発行されているわけでもない。
「休刊どころかサッカーのことをもっと書きたいというのが私たちの願いだった。雑誌を存続させるために、部数を増やしていくためにはどうすればいいかを、編集部の中で話し合った。
そこからヨーロッパ最優秀選手を表彰してはどうかというアイディアが出てきた」
創設者のひとりであるジャック・フェランは、モンパルナスのアパルトマンで私に語った。
このときフェラン95歳。妻に先立たれてからは一人暮らしを続けていたが、頭脳は明晰なうえ身体も健康で、ひとつ下の階に住む孫の学校の送り迎えは娘(映画監督のパスカル・フェラン)夫妻に代わって彼が担当していた。
フェランによれば、誰が言い出したのかはっきりしない。話し合いの中から生まれてきたコレクティブなアイディアであったという。
どういう過程を経て具体化したのかも、彼は覚えていないし記録にも残っていない。そこが同じ時期に、同じくレキップ紙の記者たちの発案から具現化した欧州チャンピオンズカップ(以下CC=現在のUEFAチャンピオンズリーグ)との最大の違いである。
CCの場合、契機となったエピソードから結末まで、すべてが記録に残されている。
レキップ紙の記者たち(実務に携わったのは編集長のガブリエル・アノと当時若手記者だったフェラン)がどうやって大会を立ち上げ、2回戦までを自分たちで運営した後(※)にUEFAに引き継いだかの詳細が書物に語られている。
(※編集部注)当時のUEFAはEUROを開催することが唯一最大のプロジェクトでチャンピオンズカップには関心がなく消極的だった。しかしレキップがすべてお膳立をし、UEFA理事会に再提案、最後はFIFAがUEFAを説得、ようやく主催を認めたという経緯がある。そういう状況のため、2回戦まではレキップが運営を取り仕切っていた。
【サッカー】爆発的な収益、欧州メガクラブのビジネスモデル
バロンドールは違う。
私が話を聞いた2015年12月時点で当時のことを知るものはフェランしか存命しておらず、創設の経緯に関してフェランの記憶は極めて曖昧だった。
だが、彼が覚えていることももちろんある。それはのちに投票委員となる各国の記者たちが、とても協力的であったことだ。
彼らもまたサッカーについて語る機会、書く機会が増えることを熱望していた。
そしてCCというクラブ間の国際大会の創設、テレビという新たなメディアの発達(実際に試合の放映が普及していくのは60年代になってからだが)が、国を超えた選手の比較を可能にした。
第2次世界大戦の終結から10年。ヨーロッパの復興も一段落し、機は熟していたのだった。
とはいえ、当時は得られる情報量が今日とは比較にならないぐらい限られていた。自国のリーグ戦すら、自分が観に行った試合以外は具体的な情報がほとんどない。アクセスできるメディアも限られている。
投票委員に選ばれた記者たちは、電話で情報を交換しながら誰に投票するかを決めたのだった。この情報交換(特にヨーロッパの記者同士の)は、インターネットが普及しだした1990年代以降もバロンドールの伝統として残っていく。

バロンドール初期の実態

第1回の投票をおこなった16か国の記者たちの中には、特異な人物がひとり混じっている。
スペインのエレニオ・エレラである。
当時セビージャの監督を務めていたエレラは、のちにFCバルセロナの監督に就任し、CCでは第1回から無敵の5連覇を誇っていたレアル・マドリードに初めて土をつけ6連覇を阻止した。
さらにイタリアのインテル・ミラノに移って守備を全面に押し出した戦術システムのカテナチオを完成させ、インテルをCCとインターコンチネンタルカップ(のちのトヨタカップ)2連覇に導くが、このときはFFとレキップの通信員も務め、スペインのニュースをフランスに送っていたのだった。
5名連記の投票(1位から5位まで順位をつけてそれぞれが投票し、1位に5ポイント、以下5位に1ポイントを与えて集計。最もポイントを多く得た選手が受賞:当時)により栄えある第1回の受賞者となったのは、41歳のスタンレー・マシューズ(イングランド)だった。
2位のアルフレッド・ディ・ステファノ(57年、59年受賞者)をわずか3ポイント抑えての栄冠(47ポイント対44ポイント)。
1956年だけの活躍とチームへの貢献度でいえば、レアルに欧州チャンピオンのタイトルをもたらしたディ・ステファノがマシューズを上回った。
だが、初期のバロンドールには過去の経歴に対する表彰の意味合いも強かった。
またのちに投票基準が明文化されるように、人間性も考慮のポイントだった。1963年のレフ・ヤシン(ソビエト連邦。今日に至るまで唯一のGKの受賞者)も同様で、その意味で投票は恣意的であるともいえた。
とはいえマシューズの受賞は、バロンドールの価値を貶めるものではなかった。
むしろ逆で、彼を第1回の受賞者に選んだことで、スタートから方向性と価値を確かなものにしたとえいるのだった。
スタンレー・マシューズにバロンドールを渡すガブリエル・アノ。

2010年に起きた大きな変革

その後は投票国の数を徐々に増やしていき、1990年には29の国・地域、旧社会主義国の分離独立によりUEFA加盟国の数が増えた後の96年には51の国・地域の記者が投票するまでになった。
選考する選手の範囲も広がった。
95年にはそれまでのヨーロッパ国籍の選手から、ヨーロッパのクラブでプレーするすべての選手に対象が広げられ、ACミランのジョージ・ウェア(リベリア)がアフリカ人として初めて受賞した。
そして2007年には全世界の選手が対象となり、投票国もUEFAに加盟するすべての国・地域と、ヨーロッパ以外の大陸連盟の過去のワールドカップ出場国へと一気に拡大した。
ヨーロッパ最優秀選手から名実ともに世界最優秀選手賞へと、サッカーのグローバル化に伴い変貌していったのだった。
決定的な変革は、2010年に訪れた。FIFA最優秀選手賞と統合し、FIFAバロンドールに形を改めた。
だが、これは、両刃の剣でもあった。
たしかにふたつの表彰がひとつになるのは、唯一無二の絶対的な権威の誕生を意味していた。また表彰式も、質素で慎ましやかなFF編集部のセレモニーから、FIFAの潤沢な資金を注ぎ込んだ豪華絢爛なものになった。
しかし統合により投票形式が変わったことは、バロンドールという賞そのものの意味を変質させた。
それまでのジャーナリストだけによる投票から、FIFA最優秀選手の投票者である各国代表チームの監督・キャプテンが加わり、それぞれが3分の1の比重を占めることになったために、年によってはジャーナリストの投票結果と監督・キャプテンの投票結果に違いが生じるようになったのだった。
従来のバロンドールのように、選手の個人としてのパフォーマンスとともにコレクティブなパフォーマンス(チームのタイトル獲得への貢献度)も重視し、さらには過去の経歴や人間性も加味して投票するジャーナリストと、背景や影響はあまり考えずに個のパフォーマンスに重きを置きがちな監督・キャプテン。
両者に違いが生じたとき、3分の2を占める監督・キャプテンの結果が最終的な結果になる。
従来のバロンドールであれば、2010年の受賞者はメッシではなくウェズレイ・スナイデル(オランダ)だった。
2013年はロナウドではなくフランク・リベリー(フランス)だった。
バロンドールがジャーナリストの手を離れ、純粋にその時点での世界最高選手を選ぶ投票に変わってしまったというのが、私を含め投票したジャーナリストたちの思いだった。
ちなみにジャック・フェランは、レキップ社の経営母体であるアモリ・グループが、FIFAにバロンドールを「売り渡してしまった」ことに対する抗議の手紙を送っている。
現在、ふたつはまた別々に分かれている。
アモリ・グループがFIFAとの契約延長を望まず、バロンドールは再び従来の価値基準を取り戻したのだった。
ではその価値基準で、ジャーナリストたちは今年は誰を選ぶのか。
FIFA最優秀選手と同様にメッシであるのか。それとも別の人物――リバプールの選手の誰かであったりするのか……。結果に注目したい。
田村修一:1958年千葉県生まれ。ジャーナリスト。日本で唯一バロンドール(男子部門)の投票権を持つ。早稲田大学大学院経済学研究科中退(フランス経済史専攻)。91年よりサッカー取材を開始。ヨーロッパで最も権威のあるサッカー雑誌『France Football』にも寄稿。著書に『山本昌邦 勝って泣く』『オシム 勝つ日本』(文藝春秋)など。『急いてはいけない』(イビチャ・オシム著)などの構成も務める。
(執筆:田村修一、デザイン:松嶋こよみ、写真:AFLO)