【SleepTech最新形】脳をハックする睡眠デバイス、登場

2019/11/29

日本が抱える「睡眠負債」の重み

 15兆円──。
 これは、睡眠不足によって日本経済が被っているとされる損失額()だ。実にGDPの2.7%。OECD加盟国のなかでワースト1の睡眠時間の代償として、医療費の増加や生産性の低下など、日本はさまざまなデメリットを引き受けている。
※Rand Europe「Why Sleep matters – the economic costs of insufficient sleep 」(2016)より
 人は、一生の1/3を寝て過ごす。その質を高め、十分な休養を取ることは万人が望んでいるはずだが、特に日本は「睡眠負債」が流行語になるほど、慢性的な睡眠不足に陥っている。
 適度な労働時間と体内時計に合った生活を心がけることが一番なのはわかっていても、国も企業も個人も、睡眠の改善に失敗し続けているのだ。
 この課題を新しいテクノロジーの力で解決しようとするのが「スリープテック」だ。広義には睡眠状態を記録するアプリなども含まれるし、ウェアラブルやセンシングなどの技術によって新しいアプローチも増えている。
 フィリップスが2018年のCESで発表した「SmartSleep」は、その象徴ともいえる製品だ。これまで睡眠時無呼吸症候群などを治療する睡眠医療機器を手がけてきた同社が、初めてコンシューマー向けに開発した睡眠デバイスである。
「SmartSleep ディープスリープヘッドバンド」/フィリップスが睡眠の質を高めることを目的に開発。2カ所の脳波センサで睡眠の状態を測定し、オーディオトーンによってもっとも深い徐波睡眠を持続させる。睡眠状態やスコアは専用アプリで確認。アメリカでのβ版を経て、日本版は11月26日に発売。
 睡眠医学の第一人者であり、フィリップスの最高医療責任者を務めるデイヴィッド・ホワイト博士によると、SmartSleepは個人の睡眠状態を可視化するだけでなく、脳科学や生理学の分野で蓄積された睡眠についての知見を発展させ、睡眠研究を飛躍的に進歩させる可能性を秘めているという。
 このデバイスが目指すビジョンを、ホワイト博士に聞いた。

睡眠の謎は、どこまで解けた?

── ホワイト博士はフィリップスのCMOとして睡眠医療機器やSmartSleepの開発に携わってこられました。この10年で睡眠研究にはどんな進展がありましたか。
 基礎科学の分野は飛躍的に発展したといえるでしょう。
 2017年のノーベル生理学・医学賞が、サーカディアン・リズム(体内時計)を生み出す遺伝子を発見した3名に贈られたことは象徴的ですよね。
 どんな神経伝達物質が睡眠に関係しているのか。神経細胞同士はどんな物質を交換しているのか。サーカディアン・リズムはどんなメカニズムになっているのか。
 さらに、なぜ我々が眠るのかという謎に対してもいくつかの有力な仮説が出てきています。
── その仮説とは?
 一つは、シナプスの再構築に関することです。覚醒時、脳の神経細胞はシナプスによってつながっていきます。ただ、その結びつきが強まり続けるわけにはいかないので、ある時点で必要のない回路を消去する必要がある。
 実際、人が起きている間はシナプスの数が増え、眠っている時にはその数が減っています。ただし、なかには睡眠時に結びつきが強くなるシナプスもあります。
 これは、我々が寝ている間に記憶を消去しているだけでなく、記憶や学習に関する情報の整理を行い、必要な情報を定着させていることを示しています。
 もう一つは、アルツハイマーや健忘を引き起こす原因にもなる老廃物を脳から排出すること。最近、これまで脳のなかには存在しないと言われていたリンパ系(グリンパティック・システム)が発見され、それがアミロイドなどの不要なタンパク質を排出する働きを担っていることがわかりました。
 その機構が発動するのは、徐波睡眠(2〜4Hzの脳波が現れる深い睡眠)と呼ばれる、ノンレム睡眠のなかでも深い睡眠状態にある時だけなんです。
── 眠っている間に脳が何を行っているのかが、科学的に見えてきたんですね。
 そうです。遺伝子研究や生理学の進歩により、さまざまな仮説が証明されつつあります。ここにデータが加わることで、睡眠研究は飛躍的に前進する可能性があります。
 フィリップスでは、これまで数百万人に睡眠時無呼吸症候群などの睡眠医療機器(CPAP)を提供し、合計38億の睡眠データを蓄積しています。これはおもに、睡眠障害を持つ人たちの睡眠時の呼吸データです。
 一方、SmartSleepには額と耳の後ろに脳波を測るセンサがついていて、ユーザーは専用アプリ「SleepMapper」で装着時の脳波をトラッキングできます。レム睡眠やノンレム睡眠、徐波睡眠という眠りの深さが可視化され、記録されるのです。
 このようなセンサは、今まで医療用途でしか使われていません。一般の方が、これほど詳細な睡眠データを日々取得することはありえなかったのです。
 現在、SmartSleepのデータは個人のヘッドギアとアプリ上にしか保存されていません。自分の脳波データを企業に取得されることにはまだ抵抗があるでしょうし、そのデータは使い途を明らかにしたうえで慎重に取り扱われるべきものです。
 でも仮に、一般向けに販売されたSmartSleepを100万人が利用し、その半数が同意のうえで睡眠データをクラウド上に共有したとすれば、毎晩50万の睡眠データが、フルレンジの脳波波形という形で集まります。
 それだけの詳細なデータが集まれば、睡眠の量的・質的な理解は格段に深まるでしょう。SmartSleepのアルゴリズムも改善されていくでしょうし、まだ誰も気づいていないような、睡眠の質を高める画期的なアプローチが発見されるかもしれません。

睡眠の質を高めるアプローチとは?

── SmartSleepは、睡眠にどう働きかけるのですか。
 SmartSleepが行っているのは、脳波に合わせて500〜2000Hzの音を流し、その介入によって眠りをより深くし、深い睡眠の持続時間を長くすること。これが、フィリップスが取り組んでいる、アルゴリズムによって「睡眠の質を高める」ということです。
SmartSleepがもっとも深い眠りの波長(徐波睡眠)を検知するとオーディオトーンから音が流れる。これにより、徐波睡眠を持続させる効果が期待されている。
 覚醒時や浅い睡眠の時には無音ですが、深い睡眠に入ると自動的に音が流れます。また、同じ音が続くと脳が慣れてしまうので、音量や音の高さは毎回変化します。寝ている間の睡眠段階の変化や、オーディオトーンが発生した回数はアプリ上でトラッキングできます。
 その正確なログや数値化されたスコアを見ることで、自分が健康的な睡眠を取れているかどうかを確かめることができる。
 健康的な睡眠のためには、時間だけでなく質が重要です。先にお話ししたように、シナプスの再構築や老廃物の排出は、もっとも深い徐波睡眠の段階で行われているからです。
── SmartSleepを使うことで、どれくらい睡眠時間を削ることができるでしょうか。
 忙しいビジネスパーソンらしい質問ですね。でも、答えは「わからない」です(笑)。
 フィリップスはそれをテストしたことがないし、SmartSleepが睡眠時間を削るためのツールだとも考えていません。
 アメリカでこのデバイスを使った人たちの平均睡眠時間は、5~6.5時間がボリュームゾーン。一般的にいえば彼らの睡眠は不足していて、少しずつ負債が溜まっています。でも、これを使うことによって、同じ睡眠時間でも認知機能の回復が高まることが認められています。
 また、定性的には、同じ睡眠時間でもより休養が取れたように感じた、目覚めがよくなったという声が聞かれます。それでも、「これを使えば眠らなくていいよ」とは決して言いません。
 私は、質の高い睡眠が取れない人たちや、眠るための時間が限られている人たちにとって、このSmartSleepが有効なソリューションになると信じています。
 でも、健康的な睡眠の量は、時間と質の掛け合わせで決まります。日本の皆さんは、もっと長時間眠るべきです。1日3時間しか眠らない人の疲れを解消するテクノロジーは、まだ世界のどこにもありませんから。
(取材・編集・執筆:宇野浩志 撮影:大橋友樹 通訳:内藤暁 デザイン:小鈴キリカ)