なぜ新規事業の立ち上げに“エリート君”は不向きなのか?
コメント
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この記事でのエリートとはなんだかわかりません。
なので少しズレたコメントになりますが、感じるところを書かせていただきます。
「偏見はいけない。私は人を肩書では見ない」と、多くの人はいいます。
でも、学歴や所属組織をもとに人を「エリート」とくくり、エリート=挫折を知らない、根性がない、失敗を恐れる、と結論づける人が非常に多い気がします。
「どんな人にも敬意をもって接する」と、多くの人はいいます。でも、学歴や所属組織を得るために注いだ努力へ敬意を示す人は、とても少ない気がします。
この「エリート君」を揶揄する記事自体が、将来に対して何を産み出しているのかわかりませんが、偏見や色眼鏡を助長している気がします。エリート君と呼ばれたとき、その人がどのような気持ちになるのか、もう少しの敬意がほしいです。
注目のコメント
既存のビジネスで優秀なだけ。
企業は、エリート社員が新規事業の立ち上げもできると考えがち。
しかし、エリート社員は必ずしも新規事業に向いていない。枠に捉われたり、変なブライドで失敗を恐れたりして、うまくできない。
むしろ、既存のビジネスにフィットしなくて、エリート社員とは程遠いと評価されていた社員の方が、豊かな発想ができたりする。
社員を画一的に評価せず、潜在的な能力を見抜くことができるかどうかが、新規事業の立ち上げに大きく影響します。Googleの創業者(スタンフォード)もNetflixの創業者(スタンフォード)もfacebookの創業者(ハーバード)も、エリート君ですけどね。立ち上げ力とは関係ないんじゃないですかね。というか、エリートさが足りないんじゃないですかね。
筆者自身東大→旧第一勧業銀行→BCG→三井不動産という絵に描いたようなエリートなのに、何故にエリート批判? と思いながら読み進めてきましたが、なるほど現場の体育会系社員が藪漕ぎをして開いた新規事業を、本社の上級管理職があたかも自分の手柄のように誇示する一方、失敗したらその責任を下に押し付けることを批判している訳ですね。
そしてこの手の手柄だけ取り上げ、失敗の責任を取らない上級管理職を「エリート君」と揶揄していると。
裏を返して言えば、新規事業にあたっては本社の上級職も現場に入り、一緒に「藪漕ぎ」をしなければ本当の意味で新規事業の成功はおぼつかないということなのでしょう。
まさにその通りと思いますが、大企業の組織システムというのは一朝一夕で出来上がったものではなく、こうあるべきだ、ではなかなか変わらないというのが実際のところかと思います。(だからこそ筆者はエリート君などという侮蔑的な言葉で挑発しようとしたのでしょう)
それよりもなんでも自前でやるのではなく、より柔軟に外部ソースを借り、異業種との多彩な提携で新たなイノベーションを引き起こすことを考える方が今の世の中にあっているように思います。
大企業のエリートに必要なことは、自前主義を捨て、それを進める社員を登用し、その成功と失敗を適切に評価することではないでしょうか。