【証言】「裏金時代」にできたFA制度の思惑

2019/11/9

「たいていの奴はカネで転ぶよ」

 フリーエージェント(FA)制度が誕生した翌年の1994年オフ、西武ライオンズから2人の主力がFA宣言して福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)に移籍した。左腕エースの工藤公康と、チームリーダーの石毛宏典だ。
 くしくも4年前、同じ軌跡をたどった男がいる。“球界の寝技師”こと根本陸夫とともにフロントとして1980年代中盤の西武黄金期の礎を築き、1990年、ダイエーの球団代表に就任した坂井保之だ。その坂井は言う。
「FA制度を裏で推進したのは俺だから」
 1992年4月30日、セ・パ6球団の代表と有識者によって行われた第3回FA問題等研究専門委員会で、FA制導入について阪神と中日が「反対」、日本ハムが「時期尚早」、西武が「結論を出すには至っていない」としたなか、巨人とともに賛成に回ったのがダイエーの坂井だった。
「本当にいいヤツ(選手)らは他に行かんという自信があるから。俺の魅力で金タマをギュッと握っている。カネじゃダメだ。カネの魅力なら、よそだって裏金を使うからな。そのクラス(の選手)になると」
 1979年シーズンから埼玉県所沢市に本拠地を移した西武は、80年代中旬から10年間で9度のリーグ優勝を達成する黄金期を築いた。その裏にあったのが、管理部長(今で言うGM)の根本と、球団代表(野球オペレーション部門のトップクラス)の坂井の“豪腕”だ。
「いい選手を獲るのは、まず発見。たいていのヤツは、両親を含めてカネで転ぶよ。もともとカネが欲しくてプロ野球選手になるんだから」
坂井保之(さかい・やすゆき)。ロッテオリオンズ、西武ライオンズ、福岡ダイエーホークスの球団社長を務めた。プロ野球経営評論家。
 カネで転がしたのかは不明だが、黄金期を迎える前、西武は後の主力を独自の方法で迎え入れている。1980年には他球団との争奪戦の上、八代高校の秋山幸二をドラフト外で獲得する。さらに、熊本工業高校の伊東勤を所沢高校の定時制に転校させ、西武の球団職員として囲い込んで1981年ドラフト1位で入団させた。
「ヨソに引っかかっているのをこっちに覆らせるには、ちょっと根性がいるよ。『どこどこの球団のスカウトから、あの選手のオヤジが小遣いを300万円もらったと喜んでいました。うちが今から手をつけてもダメです』って言ってきたスカウトがいた。『お前、300万円で負ける気か? それは本気? それがプロの世界? お前の人生をかけて、あいつをゲットしようとしていないからだ。そのほうが問題だよ』。そうすると、そのスカウトは顔色を変える。だから終いには、(いい選手を他球団に獲られそうと言う)悪い噂が俺の耳に入ってこなくなった」
 坂井によれば、スカウトがどこまでお金を使っていいか、球団内に決まりはなかったと言う。
「俺は言わば、西武ライオンズという大きな建物を建てようという大工だよ。俺の言う通りにやれば、家が建つんだよ。そんなことをダメと言うなら、俺をやめさせてくれ。プロの世界だから、俺を欲しい人はいっぱいいる。その代わり同じリーグでヨソに行ったら、悪いけど西武を目の敵にしますよ。いいんですね? そのときに堤オーナーが『なんで坂井を辞めさせたんだ』と問題にならんですか? そうなってからでは手遅れですね。そういう話だよ」
 今や昔、20〜30年前のプロ野球は裏金が飛び交う世界だった。
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「ジャイアンツにみんなくる」

 帳簿に正しく載らない札束がやり取りされる裏で、当時のプロ野球ではあまりに杜撰な球団経営が行われていた。
 球団は親会社の「広告塔」という位置づけで、赤字をいくら垂れ流しても問題ない。広告宣伝費として補填されるからだ。現在のように「スポーツビジネス」という概念はなく、テレビ、新聞のバックアップで日本全国に圧倒的人気と富を築いた読売ジャイアンツに対抗できる球団はほぼなかった。
 球界におけるパワーバランスのゆがみは、FA制度の中身にも大きな影響を与えた。1982年から日本ハムの球団代表を務め、後に球団社長、オーナー代行を歴任した小嶋武士が振り返る。
「セ・リーグの球団はジャイアンツに抜けられると困るわけです。当時、1試合1億円でテレビ放映権が売れていた。巨人戦は年に13試合だから、13億円入ってくる。パ・リーグはこれがない。どんなに頑張ったって、最初から13億の収入が違うわけです。パ・リーグ(の放映権料)はタダみたいなものだった。みんな赤字球団。『お荷物球団』と言われているヤツばかり集まっていた」
 選手に移籍の自由を認めるFA制度を導入すると、獲得競争はマネーゲームとなり、年俸高騰するのはメジャーリーグの例を見ても明らかだった。
 同時に、球団経営にとって肝となる「保留制度」にも影響が出てくる。
 前回指摘したように、選手は球団との契約が満了しても自由に好きな球団と交渉できず、たとえ任意引退しても3年間は所属球団に保留権が残る。一般社会と異なり、“野球村”では球団が極端に強い権利を有するのだ。
【検証】「FA制度」導入の裏で何が話されていたのか?
 労働者を束ねる日本プロ野球選手会が保留制度について疑問視する一方、球団が同制度を持つ理屈を小嶋が説明する。
「球団の財産というのは、選手の技術と能力。技術と能力を高めることによって、選手は価値が上がっていく。それで球団の財産を大きくしていく。それによって魅力的な球団を多くのファンに見てもらうことで、お金が入ってくる。このサイクルを回すために、保留権が必要だった。保留権の価値を高めていって、どのタイミングで違う球団に出してもいいかという体制をつくるかがFA制度の課題の一つだった」
 1992年3月に始まったFA問題等研究専門委員会では、最初に保留制度のあり方が議論された。選手たちにFAで「自由になる権利」を与えるには各球団の経営状態を把握する必要があるとなり、参加6球団について確認された。
 小嶋によると、巨人は64億円のプラスで、日本ハムは1億4400万円の赤字。阪神は「次回出す」と言って、最後まで明かさなかったという。いずれにせよ、パ・リーグは総じて厳しい経営環境だった。
 こうした状況でFA制度が導入されると、巨人の“一人勝ち”になるのは明白だ。
 ただし、それは国内市場に限った場合である。小嶋は後に、巨人の渡邊恒雄オーナーとこんな会話をしている。
「渡邊オーナーと話したとき、スタッフの方から『FA制度を導入すれば、各球団の主力選手が全部読売に入ってくる。優勝できる』というサジェスションがあったと聞きました。僕はそのとき、『読売さんと言えども、主力選手がメジャーから獲られますよ』という忠告をしました。だけども、誰もそんな話は(FA問題等研究専門委員会などで)していない。結果、松井秀喜をヤンキースに獲られちゃうわけです。上原浩治を獲られるなんて考えていなかった」

FA制度が「先にスタートしてしまった」

 1994年オフ、野茂英雄が代理人の団野村とともに日本プロフェッショナル野球協約の“スキ”を突いて任意引退選手(アメリカでは「フリーエージェント」の扱い)となり、ロサンゼルス・ドジャースと契約を結んだ。野茂が1995年にMLBで新人王に輝くと、年俸もレベルもNPBより高いアメリカは、日本の一流選手が目指す場所になっていく。
 一方、巨人の放映権料頼みというプロ野球ビジネスのあり方を変えるべく、パ・リーグは様々な提案を行った。日本ハムの小嶋元球団代表が振り返る。
「当時のホームゲームは年間65試合しかなかった。興行の世界で数が少ないというのは、それだけ採算が悪いわけです。その数を増やそうとしたけれど、まだ目処が立っていなかった。
 それとパ・リーグは交流戦を提案していた。(同一リーグの)6球団が入れ替わり立ち替わりで、今週やったカードを来週は場所をひっくり返してやっているのでは、少なくともカードにおける魅力が削がれる。もっと付加価値のある交流試合を入れて、12球団で手を結べる体制をつくろうと提案していた。それも全部見通しが立たないうちに、FA制度が先にスタートしちゃった」
 水面下でセ・パが駆け引きをするなか、セ・リーグは放映権料で巨人に手綱を一手に握られているのに対し、パ・リーグは一枚岩ではなかった。ダイエーの球団代表を務める坂井は「球団の収入源の限界」や「FAだけを一人歩きさせるべきではなく、全体の改正を考慮の上」と訴えた一方、“球界の盟主”に対する強烈な自負がFA賛成に向かわせた。
「俺にとってジャイアンツは倒すべき相手よ。倒さないと日本一になれない。俺が倒すというのは、日本シリーズで倒すということではない。ジャイアンツの中にいる、俺みたいなヤツ(フロントのトップクラス)が『あいつにはやられたな。俺の時代も終わったな』と心の中でつぶやくときが俺の勝利。ドラフト改革やFAの導入も巨人が『やるべきだ』と言っていたけど、『バカだな、巨人は。自分の自由になると思っているんだな』と思ったよ。
 セ・パの対立もあるから、プロ野球全体の繁栄はもちろん考えるよ。セが伸びるのを俺が妨害すれば、やがて拮抗する。例えば『Gが誰々を狙っている』と聞いたら、それをどこか地味な球団のスカウトに囁いてやる。その辺、俺は古狸だから自由自在よ。西武の人間でも、俺のことを何も知らんヤツがいっぱいいた。そいつらにはそういう話をしないから、ただのフロントの部長だと思っている。俺は後に代表をやったけど、球団運営の何でもやるんだからな。予算の管理までやっていた」
 海千山千のフロント陣があの手のこの手で有力アマチュア選手の獲得競争を繰り広げるなか、すでにプロになっていた選手たちは、「自由に移籍できる権利がほしい。お金ではない」と純粋な心で訴えた。なかには「FA権をとれるなら、契約金を返してもいい」という声もあったという。“人としての権利”を訴えるピュアな姿に、世間も後押ししていく。
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合意に至っていないなかでの発表

 そうして1993年シーズン開幕を前に、パ・リーグもFA導入を基本方針として受け入れていた。当時を小嶋が振り返る。
「1シーズンの登録日数が150日に達すれば『1年間』として、一軍で10年間プレーすれば基本的にFAで自由に移れる権利を認めましょうとなりました。ところが、どさくさに紛れてドラフトで二人の枠が(逆指名で)自由になったので、『その選手はFAではどうするんだ?』となった。そういうところがまだ詰まっていなかった。
 でも1993年5月、中川(順)さん(FA問題等研究専門委員会の会長)が突如として『FA制度導入』を発表した。パ・リーグ側のメンバーは最終合意に至っていなかったのに、強引に宣言した」
 同月14日、中川会長は「(1)資格獲得条件を最低10年で出場登録通算1500日(2)権利行使は資格獲得年から2年以内に1度だけ(3)1月31日までに契約がまとまらなかったFA選手を『制限選手』とし、その年の契約を認めない」などをFA制度の骨子としてまとめ、野球機構実行委員会の原野和夫議長(パ・リーグ会長)に答申書を手渡した。
 NPBにおいて野球機構実行委員会はオーナー会議に次ぐ位置付けで、球団代表を務めていた小嶋の反応を見ても、FA導入が限りなく決定事項に近づいたことがわかるだろう。実際、翌日の朝日新聞は「機構側は、この答申をもとに具体案作りに入る」としている。
 一体なぜ、第三者として中立な判断を任されたはずの中川会長は、セ・パの合意なきまま強引な行動に出たのか──。
 実はその2カ月ほど前、突如心変わりした者がいた。西武のオーナー、堤義明が「FA反対」を唱え出したのである。(敬称略)