【納得】なぜ「北里柴三郎」は、医学者として大成したのか

2019/11/9
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北里柴三郎は1883(明治16)年に東京大学医学部を卒業し、内務省衛生局に入る。この進路の選択には、本人に次のような考えがあった。
「医の真の在り方は、大衆に健康を保たせ安心して職に就かせて国を豊に強く発展させる事にある。
人が養生法を知らないと身体を健康に保てず、健康でないと生活を満たせるわけがない。(中略)人民に健康法を説いて身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐのが基本である。」(結社活動の講演原稿『医道論』。1878年4月執筆)
これは、北里がまだ大学在学中、25歳のときに書かれたものである。ここに見られるのは、「『(病を未然に防ぐ)衛生』を通じて天下国家に貢献したい」という志である。
北里は衛生局に入局後、細菌学、実験医学の領域に足を踏み入れることになる。
その仕事が認められ、2年後の1885年にはドイツへの留学が命ぜられる。北里が向かったのはベルリンにあるコッホ研究所であった。
18世紀のヨーロッパでは、博物学が格段の発展を遂げた一方、医学では病理学、生理学の分野で大きな進展があった。人体の構造や病気における細胞学的な変化の理解が進んでいたのだ。
19世紀になり、フランスの学者、ルイ・パスツールによって新たに細菌学が創始された。病気には空気中の細菌を原因とするものがあり、誰もが感染、発病する可能性のあることを明らかにしたのである。
その細菌学は、イギリスの外科医、ジョゼフ・リスターによって、感染を防ぐための消毒法(防腐学)という新しい学問として発展した。
さらにドイツにおいては、結核菌やコレラ菌を発見したドイツのロベルト・コッホという細菌学の巨人が生まれたのである。

日本では「糾弾されていた」