【納得】なぜ「北里柴三郎」は、医学者として大成したのか
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熊本の百姓身分出身の北里は、日本政府内の地位としては、津和野藩の典医の家で江戸育ちの森鴎外よりは、だいぶん下でした、しかし、世界的な医学者としての評価は、北里の方が森よりもはるかに上です。森もやはりドイツに留学してコッホの研究所にいましたが、4か月だけでした。帰国後に陸軍のポストが用意されていた森は、ドイツで研究の業績を挙げるなど不要なことでした。
現代の世界的トップ水準の研究者の資質として求められるのは、
1.自らが世界的なトップ水準の研究成果を発表し続けている
2.教え子を他の世界のトップ水準の研究者に博士課程学生やポスト・ドクター研究者として紹介して所属させ、研究者として成長できるようにする
ことです。北里柴三郎は、日本人としては初めてそれができるようになった人でしょう。
世界的なトップ水準研究者であるためには、世界中に広がるトップ水準研究者のコミュニティに参加している必要があります。このコミュニティの中で、大学院生や若手の研究者が循環することで、次の世代のトップ水準研究者が育成されていきます。
日本において、世界のトップ水準の研究が増えないのは、このようなトップ水準コミュニティに属する研究者と、そのネットワークを通して成長する若い世代が増えていないことの結果という面もあります。
日本においては、政府からの予算を確保するうえでも、優秀な学生は自分の研究室に確保して、就職するまで外に出さないようにする、というのが合理的です(ホンダ的な現地一貫生産)。しかし、現代の研究の世界では、世界中にサプライチェーンが広がって効率を追求しているように、世界各地を回って修業し、ネットワークを広げることでトップ・コミュニティ入りする、というのが一般的です。
なぜ北里が熊本の庄屋の家から国際的なトップ水準研究者になれたのかは、多くの人の世話があってのことですが、最初はやはり細川家が熊本に熊本医学校をつくり、オランダ人医師マンスフェルトを招聘したことでしょう。北里や、北里のドイツ留学を斡旋した緒方も熊本医学校の出身です。
北里も、後輩を世界の研究者コミュニティに送り出すことに尽力し、無数の推薦状を書くだけではなく、借金漬けの野口英世に仕事を世話をしたりして、教え子たちが一人でも多く世界の研究者コミュニティに入れるように世話を続けました。
北里大学北里研究所病院は、スポーツ外来で定評があって、選手時代に大怪我をした時にお世話になりました。
大学病院にありがちな冷たさがなく、気持ちよくリハビリした思い出があります。
その北里研究所病院が生まれる経緯に福沢諭吉の存在があったというお話。
「このような逸材を無為に過ごさせては国家的損失に当たるとして、私財を投じて「伝染病研究所」を設立。北里を迎え入れたのである。
この研究所は後に、北里自身が設立した「北里研究所」へと引き継がれることになる。いうまでもなく、現在の北里大学と同付属病院の母体である」
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