患者と薬剤師を結ぶ場所。ここから新しい価値を創っていく 

2019/11/8
営業パーソンにとって、自らの裁量で営業スタイルや組織づくりができるスタートアップは魅力的な環境だ。その半面、企業姿勢や成長力は玉石混交で、働き方にも不安は残る。
2019年10月末に26億円の資金調達に成功した注目の医療スタートアップ、株式会社カケハシで共に働くCOOと、さまざまな業界で活躍してきた営業パーソンが、スタートアップならではのやりがいと、成長を実感しながら人生を充実させる職場の条件について語った。

「営業」という仕事のモチベーションは何か

──市川さんは、証券会社、リクルート、リゾート関連企業で営業を経験して、現在医療スタートアップのカケハシへ。多彩な業種を経験してどのような違いを感じますか。
市川 証券会社でキャリアをスタートした当時は、仕事への姿勢が甘く、金融商品の売り買いで手数料を稼ぐことしか頭にありませんでした。とにかくそれで評価されていたし、自分が求められている役割は数字を積み上げることだと思っていたんです。
 こうした考えは、リクルートに転職したことで変わりました。人材採用を希望する企業をサポートする中で、人材獲得が実現した後もパートナーとして顧客企業の成長を目指し関わりを続けていくという考え方にふれました。
 売り上げだけでなく、その先にある成果や顧客満足を意識することで、営業のやりがいや充実感とはこういうことなんだと初めてわかった気がしました。
日本大学卒業後、証券会社で個人営業を担当。その後、リクルートで法人営業とマネジメントを経験。ヒルトン・リゾーツ・マーケティング・コーポレーション、パーソルキャリアを経て起業を経験。2019年初旬にカケハシのCEOやメンバーに出会い、企業理念に共感して入社。調剤薬局向けの電子薬歴管理システム「Musubi」の販売やフォローを担当。
 そのあと、別の会社で海外リゾート会員権のセールスを手がけましたが、ここで「非日常体験を取り入れてもらう商品」を販売したのも、良い経験になりました。
 限られた人生の貴重な余暇を誰とどう過ごしたいか、というテーマは人生観にも通じる問題です。お客さまの心の奥で眠っていた思いや価値観を引き出すことで、リゾートでの特別な体験や時間に大きな価値をもたらすことができました。
 この経験は現在の勤務先であるカケハシで、調剤薬局向け服薬指導支援ツール「Musubi」を拡大していく仕事に生きていると感じています。
中川 当社のプロダクトは既存の仕組みの中で販売する商品ではないし、やり手の営業パーソンでも、相当難しい仕事だと思います。
 当社が事業領域としている調剤薬局や医療の業界は数多くの問題を抱えており、目の前にある課題だけでなく、その先にある未来まで共有してもらう必要があるからです。
東京大学法学部卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニー入社。製造・ハイテク産業分野の調達・製造・開発の最適化、企業買収・買収後統合マネジメントを専門として全社変革プロジェクトに携わる。2016年3月、患者の医療体験をより良くしようと武田薬品工業のMRだった中尾豊氏とともにカケハシを共同創業。

現場のリソース不足が「患者ファースト」の壁に

──調剤薬局業界が抱える課題とはどんなものですか?
中川 調剤薬局は今、経営の効率化を迫られています。政府は薬剤師の調剤作業に対する報酬である「調剤料」を引き下げ、きめ細かな服薬指導や在宅医療への対応など患者に密着したサービスやコミュニケーションを提供できる薬局を優遇していく方針を示しています。
 単に薬を渡すだけの薬局では、生き残れなくなる可能性があります。だからといって、現場の業務はすぐに変えられるものではありません。
 薬剤師は私たちの見えないところで膨大な事務作業を担っていて、患者さんとのコミュニケーションを充実させたくても、現実的に難しい場合が多い。服薬指導を丁寧に行うほど、それを記録する作業量も増えてしまいますから。
 薬剤師が薬を用意して渡すだけの役割にとどまっている限り、本来持っている知見を患者さんに還元することができません。
 患者さんにお薬を出す際に、より効果の高い服薬方法や、症状に適した健康のアドバイスができれば、調剤薬局は患者さんに新しい価値と健康をもたらし、国民医療費の削減につながる可能性だってある。
 薬剤師というリソースを、社会が活用できていないことは本当にもったいない話です。
市川 私は20歳のときに母を病気で亡くしました。あのときなぜ、母が死ななくてはならなかったのか、当時、理解することに時間を要しました。もし母の周囲に、気軽に相談できる専門家がいてくれたら違う結果もあったのでは、という思いもあります。
 そして今は、高齢の父が一人で暮らしています。父が体調を崩したときには、相談に乗ってくれる専門家が一人でも多く周りにいてほしい、父のかかりつけの薬局には当社の「Musubi」があってほしいと強く感じたのも、私のモチベーションの源泉になっています。
中川 あまり知られていませんが、薬剤師は医師に対して処方の内容や患者さんの状態をフィードバックする機能を持っているので、私たちが考える以上に頼りになる存在です。
 当社の「Musubi」があれば、患者さんに適した服薬や健康のアドバイスがタブレット画面に表示されるので、これを見せながら薬剤師は患者さんとのコミュニケーションを充実させることができます。
 また、自動で薬歴の下書きが作成されるので薬剤師の事務負担が劇的に軽減され、こうした患者さんに寄り添う仕事にいっそう力を注げるようになるんです。

医療機関に「Tシャツ営業」はありなのか

市川 ただ、現場の薬剤師さんや経営者が感じている問題意識には温度差があるうえ、変化を嫌う人もいます。
 それでも、どのお客さまもかつては志を持って薬剤師を目指したり、薬局を開業した方たちです。地域の患者さんの力になりたい、健康を取り戻してほしいという思いは、必ず持っています。
 この思いをもう一度引き出して、火をともすのが当社の営業の仕事です。薬局をもっと患者さんに貢献できる場にするために手を結び、一緒に医療体験をより良くしていくのが私たちの使命だと思っています。
中川 彼のように、医療業界の課題を解決したい、よりよい社会へつなげたいという思いは創業の精神でもあり、メンバー全員が共有している意識です。
 ただ、当社は志は高くとも、スタートアップによくある熱狂のようなものはあまりないところが、ユニークな点かもしれません。
 家庭を持つ社員も多いので、合宿しようだとか、情熱だけで猪突(ちょとつ)猛進するような雰囲気はなくて、冷静に成果を出しやすい働き方をコントロールしています。たとえるなら「冷静と情熱の間」ですね。
 経営会議の内容や、あらゆる財務データを全社員で共有しているので、全社員は経営陣とほぼ同じ情報を得られます。自分だったらどうするか、という企業経営の疑似体験ができる環境づくりも大切にしています。
市川 さまざまな業種からメンバーが集まり、得意分野をシェアできている点も気に入っています。営業チームにも、MR出身者や薬剤師もいれば、私のようにまったくの異業種出身者もいます。
 例えば、私が着ているTシャツ。もともと医療機関に対する営業パーソンはスーツとネクタイ姿で、先生方の御用聞きからスタートするのが業界の常識です。
 でも、そんな姿勢では、医療体験を改善しようというメッセージは伝わらないんじゃないか、という意見が営業チームの中で出てきました。
 そこで商品名とコンセプトをデザインしたTシャツを作ってみたところ、これが意外とお客さまに好評で。この格好で営業に行っても気を悪くされることもないんです。私たちのメッセージを伝えるきっかけにもぴったりで、ほしいといわれることもあるほど。
 「日本の医療体験に新たな価値を提供する」という目標に向かって、ささいなアイデアであっても行動につなげられることが、当社の強みのひとつだと思っています。

26億円の大規模調達は、「エコシステム」構築に

──2019年10月末には、2度目となる大型の資金調達を行い、26億円を調達したと発表されましたね。この資金を使ってどんなチャレンジを考えていますか。
中川 前回は「Musubi」の拡大が目的でしたが、今回は「明日の医療基盤となる、エコシステムを構築する」というより大きなビジョンの実現に向けた調達です。新規事業を含め、日本の医療がより円滑に回っていくためのエコシステムをつくる第一歩です。
 今回は投資家だけでなく、事業会社にも出資いただいており、当社にはない知見を持つパートナー企業と一緒に、新しい事業を創っていくことになります。当面は人材投資を重点とし、「Musubi」のスケール化を進める営業人材のほか、新規事業開発を担う人材などの採用を狙います。
──どういった人材を採用していきたいと考えていますか。
市川 企業として成長することはもちろん重要ですが、その先にある問題意識や使命感まで共有できる人と働きたいですね。そうでなければ、働く人も当社も幸せにはなれません。
中川 若い人ほど医療には関心が薄いものですが、給料から天引きされる健康保険料の高さに驚いたり、医療機関で長時間待たされたりといった課題は、多くの人が身近に感じているのではないでしょうか。
 少子高齢化が進み、現役世代が減っていく一方で、国民医療費は年々増え続け、2018年度に43兆円かかった医療費は、高齢者の割合がピークを迎える2040年度には66.7兆円まで膨らむと試算されています。
 この厳しい局面を乗り切るには、限られたリソースを効率的に配分しながら医療体験を改善し、日本の医療が抱える問題を一つひとつ解決していく必要がある。そこに当社のプロダクトやテクノロジーが貢献できるはずです。
市川 そのために共に働く仲間を求めています。医療に興味がなくとも、世の中の課題解決に携わりたいという強い思いがあれば、私のような異業種出身者も前線に立って力を発揮できる仕事です。
中川 レガシーな業界で、スタートアップがここまで多額の資金を集めたことに驚かれることもありますが、当社は“たまたま薬局をターゲットにして成功したIT企業”ではありません。
 「医療体験を改善したい」という理念からスタートし、そこから生まれた「Musubi」というプロダクトがすぐれたITデバイスとして受け入れられたということです。
 私たちは決して「ディスラプター(破壊者)」ではなく、医療現場の人たちと手を結び、新しい価値を創っていくことをミッションとしているのです。
ヘルステック企業が3年で37億円の資金調達。なぜ、調剤薬局なのか? 
(構成:森田悦子 編集:奈良岡崇子 写真:大畑陽子 デザイン:月森恭助)