社会構造の変化やテクノロジーの進化にともない、個人や企業は、新しい考え方や成功モデルへの書き換えが求められている。サイエンスによる答えがコモディティ化した現代では、「正解を出す力」に価値はなく、資本主義社会で評価されてきた能力や資質は、急速に凡庸なものへと変わりつつあるのだ。
 では、私たちはどのようにして「オールドタイプ(旧型の価値観)」から「ニュータイプ(新型の価値観)」へシフトしていけばいいのか。『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』(山口周〔著〕、ダイヤモンド社)より、4回連載でお届けする。(最終回)

権力を握ったオールドタイプのモラル崩壊が止まらない

これまで、組織やコミュニティにおける重大な意思決定は、その組織やコミュニティにおいて「最も経験豊富な人々」によって担われることが通例でした。
しかし、VUCA化する社会が進み「経験の無価値化」が起きれば、この「経験豊富な年長者による意思決定」という慣例は、必ずしも組織の意思決定の品質を担保することにはなりません。いや、むしろ、組織の意思決定の品質を壊滅的に毀損する可能性があります。
特に昨今では、美意識も倫理観も持たない年長者=劣化したオールドタイプが権力を握ってしまったことで暴走に歯止めがかからない、という状況がさまざまな組織で起きています。
当然のことながら、このような年長者に自分が所属する組織の舵取りを任せておけば、自分の人生そのものが危機にさらされることになります。では、どのようにすればいいでしょうか?
ここでカギになってくるのが、組織の中堅以下の層にいる人々、いわゆる「若手」と言われる人々による「オピニオン」と「エグジット」です。
社会や組織で実権を握っている権力者に対して是正の圧力をかけるとき、この「オピニオン」と「エグジット」が大きな武器となります。
オピニオンというのは、おかしいと思うことについてはおかしいと意見をするということであり、エグジットというのは、聞き分けのないオールドタイプの権力者のもとから脱出する、ということです。このように指摘すると何やら不穏に響くかもしれませんが、これはなにも珍しいことではなく、多くの人が日常生活の中でやっていることです。
たとえば商品を購入して何か問題があれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも改まらなければ買うのをやめる、取引関係を中止するという形でエグジットをしますね。これは株主にしても同様で、経営陣のやり方に文句があれば株主総会で意見を言い、それでも改まらなければ株式を売却することでエグジットできます。
つまり、企業を取り巻くステークホルダーのうち、顧客と株主については、オピニオンとエグジットを行使するための仕組みや法律がきちんと整備されているということです。なぜこれが整備されているかというと、きちんと監視してフィードバックするという仕組みがうまく機能しないと、社会が回らないからです。
さて、顧客や株主についてはオピニオンを出し、場合によってはエグジットするということが仕組みとして担保されている一方で、そういった仕組みが整備されていないのが従業員だということになります。
もちろん、明示的に「オピニオンを出してはいけない」などと掲げている組織はないわけですが、実際のところはどうかといえば「オピニオンを歓迎しない」ということを半ば公然と表明しているリーダーも少なくありません。
このようなリーダーに対して同調し、権力のおこぼれにあずかろうとするのは典型的なオールドタイプの行動様式であり、このようなオールドタイプによって組織のモラル崩壊がどんどん進行している、というのが現在の状況です。

ニュータイプはオピニオンとエグジットを用いる

一方で、ニュータイプはおかしいと思うことにはオピニオンを出して反論し、受け入れられないことが度重なれば組織をエグジットします。
このような行動様式は確かに一時的には不利益をこうむることにつながることが往々にしてありますが、中長期的に見れば利益の方が大きいということをニュータイプは知っているからです。
たとえば、自分が所属している組織が自分の価値観に照らして許容できないことをやろうとしているというとき、本人は大きなストレスを抱えることになります。このストレスを解消するためには、組織に変わってもらうか、自分を変えるかの、2つしかありません。
このとき、多くの人は「自分を変える」というオプションを取ってしまうわけですが、そんなことをし続けていればやがて思考力は衰退し、倫理感は麻痺し、最終的には自分自身がオールドタイプに堕することになります。
昨今の日本において頻発している不祥事や偽装は、このような「人格を崩壊させたオールドタイプたち」によって主導されているわけですが、彼らの職業人生とその末路を想えば「哀れ」としか言いようがありません。
人格を崩壊させてまで組織にしがみついてキャリアを全うしたとして、そのような職業人生が幸福なものだったと考える人は世界に一人もいないでしょう。
短期的な利益のためにオピニオンもエグジットも封じてきた彼らは、最終的に「取り返しのつかない」状況に自分の人生を追い込んでしまったということです。
自分が所属するシステムが機能不全に陥れば、自分の身もまた安泰ではいられません。つまり、オピニオンとエグジットという圧力をかけてシステムに対してストレスを与えるのは、とりもなおさず、自分自身の利得に最終的には跳ね返ってくる、ということです。
システムを健全に機能・発展させるには適時・適切なフィードバックが不可欠です。スリーマイル島原発事故では、複合的・連鎖的に進展する事故の状況に対して、情報を処理するコンピューターの処理能力が間に合わず、適時・適切なフィードバックが不可能になったことで、最終的にメルトダウンという事態にまで発展してしまいました。
人間もまた、環境から得た情報を処理して環境に働きかけるというシステムだと考えられますから、このシステムのパフォーマンスを向上させるためには、より良いフィードバックが非常に重要だということになります。
そして、オピニオンやエグジットというのは、最もわかりやすく、有効なフィードバックだということです。

小さなオピニオンが世界を変える

さてここまで読まれた読者のなかには、発言力も影響力も持たない自分のような立場にある人間がオピニオンを出したところで何も状況は変わらないよ、と思った方がいるかもしれません。
オピニオンを出して組織や社会を変革できるのは、すでにリーダーシップを発揮する立場にある経営者や政治家であって、自分にそんなことができるわけがないという考え方、つまり「世界を変えるのは大きなリーダーシップだ」という考え方です。しかし、このような考え方は、2つの点から完全に間違っています。
順に説明しましょう。まず1点目の理由として指摘したいのは、過去の歴史を振り返る限り、世界が良い方向に大きく変わるきっかけとなったのは、意外にも「小さなリーダーシップの集積」であることが少なくないからです。
たとえば米国の公民権運動のきっかけになったのは、先述した通り、たった一人の若い黒人女性=ローザ・パークスが、バスの白人優先席を空けるように命じられた際、これを断って投獄されたという小さな事件、いわゆる「バス・ボイコット事件」がきっかけになっています。
ローザは当時工場に勤める女工さんで、別に公民権運動の活動家だったわけではありません。この事件も、革命を起こそうとか運動を主導しようといった意図があったわけではなく、ただ単に「白人用の席から立て」と言われたときに理不尽だと感じたので、オピニオンを出して反論し、指示に従わなかったということでしかありません。
つまり、ここで発揮されているのはごくごく小さなリーダーシップでしかないということです。しかし、その小さなオピニオンがきっかけとなって、やがて世界の歴史そのものを変えていくような大きなうねりになって全米の運動につながっていくことになります。
サイエンスライターのマーク・ブキャナンは、著書『歴史は「べき乗則」で動く』の中で、第一次世界大戦勃発の原因となったオーストリア皇太子の暗殺が皇太子を乗せた自動車の運転手の道間違いによって発生しているという事例を取り上げて、歴史というのはパワーを持つ権力者による「大きなリーダーシップ」よりも、どこかで毎日行われているようなちょっとした行為や発言などの「小さなリーダーシップ」がきっかけになって大きく流れを変えるという、カオス理論で言及されるところのバタフライ効果について論じています。
このローザ・パークスの話は、もしかしたら、私たち個人が持っている道徳観や価値観に基づいたオピニオンやエグジットが、100年後の世界のありようを「それがなかったとき」とは大きく変えることになるかもしれないということを示唆しています。

小さなパワーを集めやすい時代

次に「世界を良い方向に変化させるのは大きなパワーだ」という考え方が、完全に間違っていると指摘する2つ目の理由を挙げましょう。
今日、ローザ・パークスが発揮したような「小さなリーダーシップ」を集積するためのツールがどんどん整備されつつあります。
それをまざまざと感じさせてくれたのが、一連の「MeToo」ムーブメントでした。簡単におさらいすれば、MeTooムーブメントとは、性的な被害を受けたにもかかわらず、泣き寝入りしていた女性たちによる「私も被害を受けた」という告発の全世界的なムーブメントです。
かつては泣き寝入りするしかなかった弱い立場にある人々が、テクノロジーを用いてつながることで「大きなパワー」に対抗する力を持ったのです。私たちは、ローマ時代から連綿と続いてきた巨大な権力が終焉を迎えつつあるという歴史的な瞬間に立ち会っている可能性があります。
ベネズエラの産業大臣を務めた後に著作家として世界的な名声を獲得したモイセス・ナイムは、著書である『権力の終焉』において、私たちがまさにそのような時代を生きているのだと主張しています。
ナイムによれば、巨大な権力は、3つのM、すなわちMore、Mobility、Mentalityによって不可逆な衰退のプロセスにあります。彼はこれら3つの動きをいずれも「革命=Revolution」と呼んでいます。それぞれについて簡単に紹介してみましょう。「More」は主として「物質的豊かさの向上」を意味しています。よく知られている通り、21世紀に入って以降、世界の貧困層は減少傾向にある一方で、中間層が台頭しつつあります。中間層が台頭すると独裁政権は成り立ちにくくなります。
トマス・フリードマンは『レクサスとオリーブの木』において、「マクドナルドのある国同士は戦争をしない」と指摘しましたが、これは「マクドナルドの店舗が経営的に成立する水準まで中間層が勃興した国では、戦争を遂行できるだけの権力集中が不可能になる」ということを受けての指摘でした。
次に「Mobility」は、主として「物理的な機動性=移動しやすさ」を意味しています。20世紀後半から、ある権力が支配する国やコミュニティから、別の権力が支配する国やコミュニティへと移動するための手段やネットワークが増加したことで、一種の「支配権力の自然淘汰」が発生し、結果として特定領域における権力の実効性が低下しつつあることを指しています。
たとえば、いわゆる「フィンテック」によって、移民ないし一時的に外国に滞在して労働する人々からの国境を越えた送金が容易になったことなどは典型と言えます。安価で安全な送金サービスは「Mobility」を発揮するためには不可欠になるからです。
最後に「Mentality」は、主として「私たちの権力に対する意識の変化」を意味しています。これは「MeToo」ムーブメントなどによって、「パワーを持たない私たちでも社会にインパクトを与えることができる」と考え、行動を起こした人が増えていることからもうかがわれることです。
確かに、かつてはその人が持っている地位と、その人が行使できる発言力や影響力には強い相関がありました。しかし、社会構造とテクノロジーの変化によって、今まさに、そのような状況に大きな変化が起きつつある、ということです。
昨今、日本ではさまざまな企業によるコンプライアンス違反が続出しています。この現象は一般的には「日本企業のモラル低下」を示していると考えられがちですが、ことはそう単純ではありません。もしかしたら、今まで隠蔽されて闇に葬られてきた数々の不祥事が、多くの「無名の人」たちによってリークされるようになったことで表面化してきた、と考えることもできるからです。
筆者個人はおそらく後者の可能性の方が高いだろうと考えています。このような時代にあって「発言力も影響力もない自分がオピニオンを上げることに意味はない」と考え、言うべきことを言わず、その場の空気に同調して忖度するのはオールドタイプのパラダイムと断ずるしかありません。
一方でニュータイプは、自分の美意識に照らして「おかしいと思うこと」については「おかしい」と声を出し、それが受け入れられなければモビリティを発揮してエグジットすることで、権力者や組織に対して圧力をかけ続けるのです。
(デザイン:月森恭助 バナー写真:akinbostanci / iStock)
※本記事は書籍『ニュータイプの時代』より抜粋して転載しています