「人を助けず、立ち去れ」が正解になる日本社会 - 「岩国トロッコ問題」が露呈した本音
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正しい答えがなく、考えることに意味がある問題に対して、学校自ら答えを出してしまい、生徒には考えることすらさせない。
そして、出した答えも最も子供たちには推奨したくないだろう答え。
「少しでもケチがつくなら、最初から挑戦しない」
これぞ反面教師か。謝罪をしただけでは何の解決にもなりません。不安を感じた数名の子どもたちに対しては、謝罪をしただけでは不安を取り除くことにはならないからです。通常の場合、謝罪をすれば「二度と同じことはしない」という意味だけで受け止められます。相手のことを慮ったようでいて、実際は自分のことを縛ることにしかならないのです。
何らかの行動を起こそうとすると、それに対してマイナスの反応が返ってくることもあります。それは予想外のことではなく、想定内のこととしておくべきです。そのマイナスの反応を出す人もその人なりの考えがあってそう反応しているのですから、そうした反応を返す人を責めることはできません。
仮に1対1のやり取りなら、もしも相手側がマイナス反応を示したら、その相手に対してとってきたそれまでの行動や主張を「撤回」すれば事は収まります。撤回は、その相手に対してだけのものとしておけばよく、同じ行動や主張は別のところで展開すればいいだけです。しかし、撤回するような主張をしたこと自体への「謝罪」となると話は別です。もしも謝罪することが、今後そのような主張は一切しないという意味合いになるのなら、撤回はすれども謝罪することまでは考え直したほうがいい。自分自身が主張したこと、行動したことに意味があると考えるのなら、謝罪までは不要ということです。それこそ、以降何も行動を起こさないのがベストという認識につながってしまいかねません。
撤回は相手のためだけを考えてすることができますが、謝罪は自分自身にもふりかかってきます。
これが1対1のやり取りではなく、授業のように1対多数のやり取りなら対応はさらに難しくなってきます。相手が多いと、今度は撤回のほうが安易にはできない状況となります。そのような状況で撤回すれば、特定の少数の人に対してのみ撤回したとは受け止められず、全員に対して撤回したと受け止められるからです。
この場合、今後も同様の授業を実施するつもりならば、例外的に「謝罪」を織り交ぜることが有効になることがあります。つまり、撤回はしないことを前提としたうえで、もしも引き起こしてしまった副作用に対して謝罪で済ませられるのであれば、謝罪することの意味もなくはない。ただ、その場合は謝罪するよりも、不安を感じた数名の心のケアをすることのほうが、より丁寧な対応であることは言うまでもありませんね。