末續慎吾が考える「これから強くなる」アスリートの条件

2019/10/27
 末續慎吾は末續慎吾を表現者と称する。
 スプリンターでも現役選手でもアスリートでもない、表現者。走ることで伝える人である。
 それは表現者であることが、幸福であり、もっとも理想に近い「生き方」を実現できるからだ。そういう選手は強い、とも思っている。

 末續慎吾が日本人初の「10秒の壁」に最も近づいたときから16年以上の時間が流れた(2003年5月5日10秒03を記録)。2年前に桐生祥秀がその壁を破り、今年はサニブラウン・アブデル・ハキーム、小池祐貴が9秒台を記録した。
 記録が証明する通り、選手の技術、体力、そしてそれを支える環境や道具は大きく進化した。
 しかし、ただ一つ追いついていないことがある。「伝える」ことであり、社会とメディアとアスリートの関係だ。それは幸福に生き、強さを携える方法であり、アスリートの社会存在価値の話でもある。
 本連載では、「表現者」として末續が考える「アスリート」としての進化について論考していく。
末續慎吾:1980年生まれ、熊本県熊本市出身。2003年6月の日本選手権で200mの日本新記録を樹立(20秒03=現日本記録)し、同年8月、フランス・パリで開催された世界陸上の200mでは銅メダルを獲得。同種目で日本人初のメダリストとなる。さらに、2008年北京五輪では4×100mリレーで銀メダルを獲得。今も現役を続けながら、スプリント理論の探究を続けている。

サニブラウンに見たアスリートの姿勢

2019年は、陸上短距離界において重要な一年だったかもしれません。9秒台を突破した二人の選手が現れ、先の世界陸上2019でも100M×4リレーで2大会連続の銅メダルを獲得しました。
もっとも注目を集めたのはサニブラウンくんでしょう。今年、日本記録となる9秒97を打ち出した弱冠20歳のスプリンターです。
走りがすごいのは当然のことですが、彼を見て「いいな」と思うのは、競技との向き合い方でした。とてもシンプルに走っているように見えます。
世界一になりたい。ただ、それだけ。
僕はこれまで「かけっこで一番になりたい」と言い続けたのですが、まさにそうした純粋な欲求に突き動かされているように感じるのです。
それは、わずかな機会ですが、言葉をかわしたときにも感じました。きっと、9秒台を出したいとか、金メダルを獲りたいということに目標を置いていないのだろうと思います。世界一になる過程に、9秒台や金メダルがある、そんな感覚です。
今のサニブラウンくんと同じ20歳のとき、僕はシドニー五輪に出場し、当時100Mの日本記録保持者(10秒00)だった伊東浩司さんと接する機会に恵まれました。そしてそこから漠然と9秒台を意識するようになります。
「誰もやったことがないことをやってやる」という思いでした。
今思えば、小さな世界観だったと思います。
「誰もやったことがないことをやる」という思いの根底――深層心理にあるものは、誰かに認められたいという欲求だったからです。褒められたい、すごいと言われたい……そう言い換えてもいいと思います。
競技者として自分自身に対して向くべきものが、まったくなかった。
周囲からは「日本人初の9秒台」を期待されていましたが、そもそも9秒台なんて、出るわけがなかったんです。そんな姿勢では。
そういう意味で、サニブラウンくんには、自分が世界一になるためにやりたい環境、道理で走っていることを感じます。
僕がその例に漏れなかった「根源的な欲求を他者に向けてしまう」ことが彼にはない。ただ速くなりたいという己の欲求に従っていて、そのために必要なプロセスを踏んでいる。
余談ですが、もしかするとこれは、彼が持つ二つの生き方に関係があるのかもしれません。ガーナ人と日本人。そして日本人としてアメリカで走る(※フロリダ大学でトレーニングを積んでいる)。
日本ではハーフと言われ、アメリカでは日本人と言われる生き方。島国で生まれた僕にはあまり想像できないのですが、記憶に残っている言葉があります。
「僕対アメリカみたいな感じ。楽しみです」
全米大学選手権に出場したときにサニブラウンくんが言った一言です。
2019年の全米大学選手権、100m準決勝で追い風参考ながら9秒96を出したサニブラウン。写真:アフロ
日本に対するアイデンティティがありながら、日本に戻ればハーフとして見られる。彼の生き様が言わせた言葉のように見えました。
彼の生き方が生んだ競技者としての姿には、新しい観点を超えて、スプリンターとしての矜持すら感じます。強いな、勝つんだろうな、という期待に応える存在です。
サニブラウンくんのように今、日本には世界で通用するたくさんのアスリートが生まれ始めています。陸上だけでなく多くの競技で、世界観が変わり始めている。
生まれたときから世界を意識してきた彼らは、これからどう競技に向き合っていくべきなのでしょうか。本連載ではそれについて考えてみたいと思います。

1歩目:徹底性が生む成長 

アスリートの姿勢として大事なものが徹底性です。
何事にも徹底的に深く追求していくこと。それは自分に対しても、他人に対しても、日常に対してもそうです。
違和感があればそこに対して、なぜだ? と考える。考え続ける。
トレーニングや僕で言えばフォーム、スパイクに対して疑問を徹底的に追求しました。
ほかにも何気なくできている動作、例えばボタンを留めること。ふだん無意識にしている作業も、たまに一つずれて留めてしまうことがあります。
そのときに「なぜ一つ、ずれたんだろう?」「今まではなぜ、ずれずに留められていたんだろう」と考えました。
このときは「自動化されているものが多い。それに頼るのは怖い面もあるな」と考えました。
僕は、こうした徹底的に突き詰めていく姿勢こそがアスリートにもっとも必要な要素だと思い、今も走り続けています。
そして徹底性を追求しているなかで得た、結果や賞賛や批判、経験などが積み重なることで立体的になっていく。そこに哲学が生まれ、人を感動させたり心を動かすパフォーマンスが発揮できたりするのだ、と。
少なくともこの姿勢がなければ、僕が「9秒にもっとも近い日本人」という評価を得ることはなかったはずです。

2歩目:徹底の先にある立体性

ただ、アスリートが多様化し、またそのツールが発達した現代(そしてきっと未来にも)には、この徹底性が持つアスリートゆえの問題も潜んでいるように感じています。
そのひとつが社会に現れる言動です。立体性のない平面的なコミュニケーションで終わっていないか。
これではアスリートとして格が落ちてしまいます。一人称で終わってしまうんです。
目標に向かってさまざまな「なぜ」に対して答えを求め続ける徹底性、その行為は平面的です。しかし、先にも指摘した通り「なぜ」を求めていく過程には、結果や人の評価、声、経験などさまざまな要素が降り注ぎ積み重なっていくこと――平面に縦線を入れたりそこに横線を入れられたりして――で、アスリートは存在として立体的になるのです。
そうしてアスリートは「私」から「私と彼・彼女」となり「私たち」となる。社会に対しても責任を持つようになります。
僕はこうしたアスリートとしての在り方が今、とても大事だと思っています。
例えば、こうした社会的な言動についてアスリートの課題の一つにメディアとの関係があると思います。ときには意図しないことを伝えられてしまったり、結果だけで判断されてしまったり、と不満を抱くこともあるはずです。
若い頃、僕自身もそう感じたことがありました。
ここ数年ではSNSなどの新たなツールの発達によって、ダイレクトに伝えたいことが伝えられるようになりました。過去に、発言に尾ひれがついて間違ったイメージを持たれることもあった僕としては、羨ましいと思います。メディアの取り上げ方が大きくない場合、情報発信の場所としても大きな効果を発揮しています。
そうした大きな役割がある一方で、立体的な(哲学を持った)アスリート(そうでないと私は幸福な表現者になれないと思っています)へ遠ざかってしまう可能性もあるとも思います。
かつて、言葉の選び方を間違っていた、語彙力が足りなかった、という自分自身の非によって、尾ひれがつく、ミスリードが起きていたことがあります。これは、当時は気づかず、今になってわかることです。
そこで得たものは自分の言葉に責任を持つ、ということ。これは自分への責任ではなく社会への責任です。
発言をし、メディアで編集され、社会に届くという順番は確かに誤解を生む可能性があります。しかし、自分の言葉が「誤解を生む可能性のあるものだ」と気づかせてくれるのも、工程があるからです。
これは収穫した生ものを食べられるように加工し、製品化される工程と同じです。製品化されたものが「受けなかった」とき、この工程の段階を経ないと、そもそもの収穫したものがおいしいものだったかどうかがわからない。
そうやって工程を経ることで、アスリートの哲学は洗練されるものだと僕は思っています。徹底性を求めながら、縦に横に線を入れることでもあります。
これがない状況が、平面的なコミュニケーションです。社会に対して責任のない言葉をダイレクトに流してしまう状況です。
メディアについても同じことが言えます。スポーツの報道を見ていると、結果ばかりが求められ、そのときどう思った、どう感じた、という心情がプロセスで描かれることがありません。
平面上で見れば、「結果」が全てかもしれませんが、実は「そのとき何を思っていたのか」という感情の点はたくさんあるのです。
感情の点は縦に、横に広がり、経験や哲学となっていく。本来は、それが人の心を動かし、アスリートの魅力となっていくはずです。決して、メダルの色がいいから心を動かすわけではありません。
だからこそ、自分が、メディアが、点が繋がってできた線を入れていくことが必要になります。そうしてできた立体性を持ったアスリートの姿をどれだけ伝えることができるのか。
工程のなかで必要だと思った疑問をきちんと問えるか。そうやって、メディアも社会にメッセージを発したときの責任を果たすのだと思います。
そうした姿勢がなければ、アスリート自身もメディアも、真に伝えることへの責任を伴いません。
自らの発信だけでは、第三者が介入していない分、自己満足の域を出ません。その第三者も、物事を立体的に見なければ、本当の意味で「伝える」ことにはつながりません。
その点で、アスリートとメディアは相互補完する存在であるはずなんです。

3歩目:立体性が持つ推進力

こうした点を踏まえて、アスリートの成長を考えてみます。
実は、競技レベルが高い水準にあるとき(強いとき)というのは、見え方が一つになります。徹底的に追求していく、違和感を納得するまで求めていく。真っ直ぐで平面的な前進。感覚にすごく敏感で、刺激が強くて、インスピレーションが研ぎ澄まされていて……強烈でセンセーショナルな状態にあります。
矛盾するようですが、これは大事なことです。
先にも書いた通り、僕自身も真っ直ぐに走ることを追求してきました。ときに、他者に認められたいと言う欲求が、それを前進させたこともあります。
つまり、平面上にある徹底性が競技力を推進していく。
ただ、それだけでは「伝わらない」。
アスリートは何かを伝えるとき個人に帰結してはいけない、と僕は思っています。自分が言いたいことを言えばいい、楽しければいい、というのでは、発展性がありません。それはもう少し距離を広げて、自分のコミュニティに伝わればいい、というのでもダメです。
いくら自分で発信しても、その思いはコミュニティで共有される以上のものにならない。
もっと言えば、どこかで立体で物事を見ることができないと、アスリートとして潰れてしまいます。
自己満足の世界では、常に一人称のままです。僕は、アスリートは表現者だと思っています。競技をすることで伝えていくことがある。自分自身に対してもそうです。
先にも指摘した通り、最終的には「私とあなた」から「私たち」になっていかないといけない。
2003年、僕はパリで行われた世界陸上で日本短距離史上初のメダルを獲得しました。その後から、僕は少しずつおかしくなっていきます。2008年の北京五輪で400Mリレーにおいて銀メダルを獲得した後には、完全に自分が自分でなくなり、外にも出られない状況になりました。
熊本に戻り、休養をして2017年の日本選手権に復帰するまで約10年を要しました。
たくさんの人に助けられました。そこで初めて自分だけでなく「私たち」になった。そして、今の自分が一番、アスリートとして幸福です。
今回は、かなり抽象的な話になってしまいましたが、これからこの連載「アスリート2.0」で、未来の表現者のあり方について、考えていきたいと思います。
(構成:黒田俊、デザイン:九喜洋介、小鈴キリカ、写真:アフロ)