「裏切り、許さない」=トゥンベリさん、怒りの演説-国連気候サミット開幕
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彼女がリードする活動に対する私の率直な気持ちは下記の「気候変動対策を求める若者に、大人はどう応えるべきか」に書きました。
http://ieei.or.jp/2019/06/takeuchi190603/
この原稿にも書いたのですが、彼女の活動に共感しないわけではないものの、社会の「共感圧力」というような雰囲気に抵抗を感じます。
私は正義という言葉に対しては非常に慎重であるべきだと思っているのですが、「気候正義(climate justice)」という言葉が、気候変動対策至上主義を助長していないだろうか、と思うのです。
以下、上記のリンク先からの一部抜粋です。
実は若者が気候変動問題について純粋な危機感を大人たちにぶつけたのは、グレタさんが最初ではない。さかのぼれば1992年にリオ・デジャネイロで開催された地球環境サミットで、当時12歳のセヴァン・スズキさんが行った演説は、政治的または経済的利益を優先する大人たちを戒め、環境保護が喫緊の課題であることを説いた名スピーチとして歴史に刻まれている。これほど有名にはならなくとも、気候変動対策の加速を訴える若者の胸打つスピーチを、これまで筆者は何度も聞いてきた。
しかし、気候変動の対策がなかなか加速しないのはなぜなのか。彼らが指摘するように、政治的または経済的利益を優先する大人たちの抵抗があるということも否定はしない。しかし本質的な理由は、気候変動問題は「行動しない悪い大人をとっちめる」ことで解決するような単純な話ではなく、安価な低炭素技術が普及するというイノベーションによってはじめて解決される問題だからだ。
(中略)
いまの気候変動問題は、何かをやめさせることで解決できる問題ではなく、安価な低炭素技術が普及するというイノベーションによってしか解決できないのだ。(中略)
いま多くの大人たちがしているように、若者の行動を称賛し、「自分たちは行動しない悪い大人たちとは違う」とアピールすることが、あるべき姿だとは筆者にはとても思えない。この非常に複雑な課題を単純化し、解決しないことを誰かのせいにしたり、誰かを非難することが解決への道筋だと勘違いさせるようなことは厳に慎むべきだろう。共感を示すのはたやすい。しかし、彼らの真摯な危機感に、真摯に向き合おうではないか。教育の権利を訴えノーベル賞を受賞したマララさんの事も思い出しました。悔しい気持ちになります。
子供には教育や環境について主張する権利があるばかりか先に死ぬ大人には彼らの将来のために対処する義務があります。
綺麗ごとではなく環境について足元でできることを日々取り組むしかないです。
http://eedu.jp/blog/2017/07/12/malalatwitter/国連環境計画(UNEP)はCo2排出ギャップ報告書の中で、133カ国の7000都市以上と企業6000社以上が、2030年までの間に少なくとも36兆ドルの収益を投じて、気候変動への対策をしていると報告しています。
36兆ドルとはつまり約4000兆円ということです。
この巨額の金額が、経済成長や福祉、貧しい人たちへの援助など様々な用途に使われるべきものから、環境対策に投じられているのです。
これが裏切り、許さないと口を角にして非難されるほど小さい金額だとは私は到底思いません。
もちろん論者によっては、地球規模の環境破壊の前には数千兆では足りないという議論もあるかもしれませんが、十分とは言えないまでも、世界中が大きな努力をしていることは認めるべきではないかと思うのです。
なお同じ報告書では2030年までに目標通りの排出量の削減を進めているのは、ブラジル、中国、日本の3カ国で、逆に期待通りに進んでいないのは、アメリカ、アルゼンチン、オーストラリア、カナダ、ヨーロッパ連合、韓国、サウジアラビア、南アフリカだとしています。
もし世界中が裏切りを働いているというのなら、この問題についてだけ言えば、日本はその正直さをもう少しだけ尊敬されてもいいのではないかと思うのです。