挨拶を哲学すると、資本主義の本質が見える
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注目のコメント
『挨拶とは、今日というかけがえのない一日に、互いに出会えたことを喜び合う行為である。だから人生を感動的に楽しみたいなら自分のためにも積極的に挨拶をするべきであろう。』
挨拶の本質を考えると深い。コップに水を入れると水は意思を持たずにコップの形になる。
つまり、「コップ」は社会の構造で「水」は人の思考のことで人間はただ構造に合わせて考えさせられてるだけにすぎないとの話。
だが、現実は、水のように意思を持たず全てのストラクチャーにもぴったりはまる人間はおらず、全ての人がそうなった場合、主義がなくなり思考が拡散(カオス)し、無になるか新しい構造ができる。その繰り返し。挨拶大事と、水は器によって形が変わるというお話。
挨拶は原始時代、多分敵では無い同じ人間だよと知らせることから始まったのではと想像する。
山で未確認のまま獲物に間違えられたらお互い大変。とすると元は危険を避けるためか。
現代でもそんな感じはしますね。一念発起して真面目に仕事に取り組む事にした時、真っ先に考えたのは挨拶の仕方。
自分なりの工夫の余地は大いにありましたし、手ごたえもありましたね。意識して始めたのが板に付いた頃、周囲からなんか変わったとの評(´-`).。oO
なんのまだ序の口、先があると思ってましたけど💪
水は方円の器に従う。幼少時からそう教えられています。
確かにね。水は例えです。
で、水については色々な事が考えられるわけで(笑)
私は水の性質をH2O的方向へ行かなかった事だけは確か💦
水は方円の器の中だけにそのままとどまるとは限らない。
変化するし多様な技を使える。
凍るとか、蒸発するとか、隙間に強いとか
他とまとまったり馴染んだりしやすいとか‥‥
すると養母は、「縁なき衆生は度し難し」とくる(笑)