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好きこそものの上手なれ。
私は54歳で大企業を辞めて、マーケティング関係のフリーランスとして生きています。

マーケティングは割と得意ですが、好きかと言われると微妙です。ただし嫌だった忖度をしないで暮らしていけるようになったのはとても幸せです。

本当に好きなのはゴルフとテレビをダラダラと見てることです。さすがにそれでは食べていけません。
わかるけれど、「好きなことをしないと豊かになれない」と言われすぎると、変にハードルがあがってしまい、身動きがとれなくなる人が増えるという弊害が発生しそうです。
人によって、バイタリティ、体力が違うし、豊かさの定義も異なります。一概に考えず振り回されず、自分自身がこの選択に納得感があるか?を常に問うしかないと思います。
好きな事を仕事にするというのは、一昔前だと、いいよなお前は好きなことで飯食えてという、ややもすると運良く幸せなルートに入れたというニュアンスがあったと思いますが、そうではなく、好きじゃない事を仕事だからやっている程度のスキルでは飯が食えない時代になってきたと言う事です。

かつては、部署の中で詳しい、会社の中で詳しいというレベルでもエキスパートとして認められていましたが、マーケットが広がった今、NewsPicksもそうですが、業界トップレベルの知識の人に接触する機会はいくらでもあります。我々はその中で戦っていかねばなりません。 

人は好きな事をやらないと突き抜けられない。という事だと思います。
直感的に反発を買うタイトルですが、しかし一定の納得感がある話のようにも思います。

かつての「好きなことをしていい」というのは、要は「嫌な仕事をそんなに頑張らなくてもいいんだよ」という救いの言葉であり、一般的には働き方の自由を広げるように受け取られています。

しかし本稿の「好きなことをしなければ豊かになれない」というのは似たような言葉ですが、実は全く逆の事を指しています。
つまり、頑張るとか、頑張らないとかいうレベルを超えて、今後は本当に好きと言えるほどのレベルでないと通用しない、という話なのです。

現代は「特定の分野のスペシャリストが高い価値をもつ」時代になりつつあります。
しかしネット時代、グローバル競争時代には、従来の様な中途半端なスペシャリストでは歯が立ちません。
「人生全てを投じられるほど"好き"というレベル」だけがスペシャリストとした社会に通用し、豊かになることができる、という訳です。

かつてはどの会社に入っても、ゼネラリストとしてそれなりに出世し、豊かな生活を送る選択肢がありました。
今後それがなくなることはないとしても、少なくなると考えるなら、若い人たちにとっては仕事選び、キャリアの選択、というのは、それ以前の世代と比べて非常にシビアで、自己決定がなされなくてはならないものになるのかもしれませんね。
最近、一番注目している書き手さんです。
今月からこの方の有料note 購読しています。

https://note.mu/yuyadachi

何をやるにしても、マーケットが存在しないと無意味と
いうのは、全く同感。

この話に加えて、
「両利きの経営」の「深化と探索」の「探索」、

あすか会議の藤原先生の「キャリアの三角形」が大事。

どれも最後は同じことを言っていますね。

引用
個人的には、「好きを仕事に」というのは、若干ショートカットされた言い方だと感じている。

単に「好きなこと」をしているだけでは、仕事にならないからだ。

仕事はマーケットが必要で、マーケットを見る目のない人は、「好きを仕事に」は実現できない。



したがって、自由を謳歌するための条件は、マーケティング能力、すなわち

・市場に自らの能力やプロダクトを晒す

・市場とマッチしていない場合は、学習・修正を行う

の2点を獲得する必要がある。

その上で「自由の使い方」を教養として身につければ、まあ、一生困らないのではないだろうか、と思う。
希望の話ではない。寝食を忘れて集中できるテーマを持たない人から先に貧困になるということだ。尖った専門性があると有利という呑気な議論ではなく、一昔前の普通を手に入れるための条件が上がっている。
確かにそうなって行くよう気もします。好きなことをまず見つける事、気づく事。そして仕事にする事。それぞれハードルはあると思いますが、日本人は好きなことを大人になっても遠慮せずやるという機会が少なかったように思うので、子供の頃からの教育が今後はすごく重要だと思います。

本人が色んなことに挑戦すること共に、好きなことを仕事にしている大人の話を聞いたり、見たりすることも大事なのかなと思います。
「好き」であることと、それが「出来る」かどうかは別の話です。誰しもが「何者か」になりたがる時代に、気持ちと能力の乖離に気づかない、あるいは気づかないふりをしている人たちが、上手くいかない責任を周囲の人間や社会の構造になすりつける行為が、目につくようになった気がします。

最後の一文には大いに同意。
”結果として、「自由を謳歌できた人々」は、そのような方に手を差し伸べる義務を負うと私は考える。”

「何者かになれ」とか「好きなことを仕事にしろ」と、好きなことを仕事にする幸運に恵まれて何者かになれた人たちが、高みの見物で「俺達のところまで這い上がってこいよ」と言っている構図は醜い。
好きなことは「見つけるもの」ではなく「見つかるもの」

「好きなことしなければならない」
「自分らしくなければならない」
「夢を持たなければならない」など

本来は自由であったことを義務だと考えるようになってしまった。本末転倒です。

そんな考え方では決して豊かにはなれません。心が躍ることに気がつけば、好きなことは見つかります。
イケハヤのツイートを引用している時点でどうなんだろ…

「好きなことをしている」と「心が豊かになる」というのは相関だけど、「好きなことをしてれば豊かになる」と因果に結びつけちゃいけないと思うよ。因果にすちゃうから「好きなことをしないと豊かになれない」なんて馬鹿げた論法になるから。
好きなことをしていると言っている人が脳内本当にそうなのか?はわからないけどね。無理やりそういう感情を理屈付けしているだけの気もするけどね。