【小川仁志】アダム・スミスに学ぶ、新時代のお金と徳

2019/7/19
NewsPicks Brand Designから新媒体「NewsPicks Brand Magazine」が7月1日に誕生した。Vol.1のテーマは「新時代のお金の育て方」。投資ビギナーの若手ビジネスパーソンに向け、お金の不安から自由になる方法論を様々な角度から集めた一冊だ。

道徳哲学者であり“近代経済学の父”としても知られるアダム・スミスの言葉には、人生100年時代を生きる私たちがより快適に生き抜くためのヒントが詰まっている。目まぐるしく変化する新時代のお金と徳について、哲学者・小川仁志が提言。一部をここに掲載する。

利己心に歯止めをかける「同感」という能力とは

時代が令和に変わり、この新時代をどう生き抜いていくべきか、誰もが日々真剣に考えているのではないだろうか。
とりわけ平成という時代が、バブルとその崩壊、そしてリーマンショックといった世界的な金融危機を経験した激動の時代であっただけに、お金に対してどう向き合っていくかは悩みどころだ。
キャッシュレス化が進むことで、お金を使う感覚が益々薄れていったり、仮想通貨を使った投資などが多様化し、お金を増やすことが自己目的化したりしていく中で、そもそもお金儲け自体が善なのか悪なのかもわからなくなってきているのではないだろうか?
小川仁志(おがわ・ひとし)/1970年、京都府生まれ。哲学者・山口大学国際総合科学部教授。京都大学法学部卒、名古屋市立大学大学院博士後期課程修了。博士(人間文化)。総合商社のサラリーマン(伊藤忠商事)、フリーター、公務員(名古屋市役所)という異色の経歴。徳山工業高等専門学校准教授、米プリンストン大学客員研究員等を経て現職。大学で新しいグローバル教育を牽引する傍ら、「哲学カフェ」を主宰するなど、市民のための哲学を実践している。また、NHK・Eテレ「世界の哲学者に人生相談」に指南役として出演。専門は公共哲学。
こんなときは原点に返って考えるのが一番だ。お金に関していうなら、近代経済学の父ともいうべきアダム・スミスにまで立ち返るのがいいだろう。
よく知られているように、スミスは主著『国富論』の中で市場経済のメカニズムについて論じている。市場における個人の利益追求が、結果として適切に配分され、あたかも神の見えざる手に導かれるがごとく、自然に経済が成長していくというものだ。
これに従えば、人はお金儲けに邁進すればいいということになる。ところが、そのスミスにはもう一つの重要な著書がある。哲学分野における主著といってもいい『道徳感情論』だ。
ここには、逆に利己心を抑えて道徳的に生きるための方法が書かれている。近代経済学の父は、同時に経済活動における道徳の父でもあるのだ。
スミスがこの一見矛盾するような二種類の本を著したのには理由がある。たしかに、利己心が手放しで社会の繁栄につながっているなら、それは望ましいものだといえるだろう。
ところが、もし社会の繁栄そのものに何か問題があるとするならどうだろうか。格差を生んでいるとか、拝金主義が蔓延しているとか。そうした場合、自分の利益を追求する利己心を肯定しつつも、そこになんらかの道徳的歯止めをかけていく必要が出てくるだろう。
では、何が私たちの利己心に歯止めをかけるのか。それは利己心と共に人間に備わっているもう一つの能力に着目するとわかると思われる。
人間は自分だけでなく、他者の状況についても感情を抱くことができる生き物のはずだ。
その他者の感情や行為について適切性を判断する心の作用を、スミスは「同感(sympathy)」と呼んだ。誰もが同感する能力を持っているため、私たちは互いに同感を求めて発言し、行動しようとするのだ。
「同席者たちの笑いさざめきは、かれにとって高度に快適なものであり、かれは、自分の感情にたいするかれらの感情のこの呼応を、最大の喝采とみなすのである」(参照:水田洋訳『道徳感情論』上巻)
本当は私たちは、常に他者との心のシンクロ状態を求めているのだ。誰もが覚えがあるだろうが、自分のいうことに周囲の人間が共鳴してくれたときは気持ちがいいものだ。そうした感覚を持つためには、誰もが客観的に事態を観察できなければならない。
どの程度であれば周囲も納得してくれるか、一歩引いて見る能力が求められるのだ。あたかも裁判官のような、利害関心のない心の中の「公平な観察者」によって、自分や他者の行為を判断する必要がある。
「われわれ自身にとって特別に関係のある諸対象によってかきたてられるあらゆる情念の適宜性、すなわち観察者がついていける調子の高さが、ある種の中庸にあるにちがいないことはあきらかである。もし、その情念が高すぎるか、あるいは低すぎるかであれば、かれはそのなかにはいりこむことができない。」(参照:水田洋訳『道徳感情論』上巻)

欲望をうまくコントロール。「徳がある」人とは?

問題はその判断基準である。ここで参考になるのが、称賛と非難という二つの相反する行為である。一般に私たちは、人から称賛されるように、また逆に非難されないように心がけている。
具体的な基準として、スミスは「適切な慈恵の通常の程度」という表現をしている。それに達してなければ非難され、それを超えると称賛されるのだ。
「適切な慈恵の通常の程度」とは、普通に人の迷惑を考えて行動することだと思ってもらえばいいだろう。それ以上のことをすれば称賛されるし、それができていない人は非難されるというのだから。
当たり前のことであるように聞こえるかもしれないが、言うは易く行うは難しである。自分の胸に手を当てて考えてもらいたい。
かくいう私も例外ではない。だからこそ、こうした判断を常に適切にできる人のことを、徳があるというのだ。スミスは徳のことを、「卓越であり、大衆的で通常なものをはるかにこえて高まった、なにかふつうでなく偉大で美しいもの」と表現する。
「徳とは、卓越であり、大衆的で通常なものをはるかにこえて高まった、なにかふつうでなく偉大で美しいものである。愛すべき諸徳は、極度のそして予期されぬ繊細さとやさしさによって人を驚かす程度の、感受性のなかにある。畏怖すべく尊敬すべき諸徳は、人間本性のもっとも統御しがたい諸情念にたいする目をみはらせるような支配力によって、人を驚愕させる程度の、自己規制のなかにある。」(参照:水田洋訳『道徳感情論』上巻)
なぜ徳が普通でなく偉大なものなのかというと、統御しがたい人間の情念を支配する力を持っているからである。スミスはそれを「自己規制」とも呼んでいる。
「自己規制」とは、欲望を抑えることであって、自己否定とは大きく異なる。自己否定は欲望を捨てることを意味するからである。そんなことはそもそも不可能だし、有害ですらある。
もし欲望を捨ててしまったら、経済活動は止まってしまうだろう。欲望は個人にとっても社会にとっても不可欠の推進力であって、問題はそれを削ぐことではなく、うまくコントロールすることのはずだからだ。
このあとに続くページでは、「どうすれば富の追求と徳の追求を両立させることができるのだろうか」をスミスの2つの言葉から紐解いている。

「稼ぐ」「使う」「貯める」「育てる」といったお金が持つ様々な側面に向き合い、現役世代が今も将来も豊かな人生を送るためのヒントを、さまざまな角度から集めた「NewsPicks Brand Magazine Vol.1」。ぜひ、書店などで手に取ってご覧いただきたい。
(編集:奈良岡崇子 イラスト:Grafissimo/iStock 写真:Man at Work/iStock デザイン:國弘朋佳)