ニューロンやシナプシスに似た仕組み

英西部の港町ブリストル。その広々としたオフィスで、グラフコア(Graphcore)のサイモン・ノウルズ最高技術責任者(CTO)は静かに微笑みながら、未来の機械学習のビジョンをホワイトボードに描き出した。
黒いマーカーで示した人間の脳のノードは、「黙想的で、ディープに考え、熟考する」部分だ。グラフコアは、こうしたニューロンやシナプシスに似た仕組みを構築することで、「インテリジェンスを機械化」できる次世代プロセッサを開発している。
人工知能(AI)はよく、莫大なデータセットを掘り起こす複雑なソフトウエアとみなされるが、そのソフトウエアを動かすコンピューターにはもっと重要な障害があると、ノウルズとナイジェル・トゥーンCEOは考えている。
問題は、半導体チップ群(CPUやGPU)は人間のように「思考する」ように設計されていないことだ。
人間の脳なら、向こうから歩いてくる人を見て、直感的に問題を単純化して分析できるが、コンピューターはその顔を全画素まで細かく解析して、無数の画像データベースと比較して、ようやく「ハロー」と声をかけるかどうか判断する。
コンピューターはもともと計算機であることを考えれば、その精密さは当然なのだが、AIにとっては極めて非効率で、関連データすべてを処理するために莫大なエネルギーを消費しなくてはならない
ノウルズとトゥーンは2016年にグラフコアを立ち上げたとき、「そんなに精密ではない」プロセッサを開発することを、ビジネスの中核に据えることにした。彼らはそれを「インテリジェンス処理装置(IPU)」と呼ぶ。
「人間の脳にあるコンセプトは非常に漠然としている。精密な思考をもたらすのは、極めて近似的なデータ点の塊なんだ」と、ノウルズは言う。

「世界有数の偉大なアーキテクチャ」

人間のインテリジェンスが、なぜこのように形成されるのかについては諸説がある。
しかし「グラフ」と呼ばれる、巨大かつ不定形の情報構造を処理しなければならない機械学習システムにとって、ノードのようなデータ点をつなぐことに特化したチップの開発は、AIの進化のカギになるかもしれない。
「数字を非常にざっくりと操作できる超高性能コンピューターを作りたい」と、ノウルズは言う。
別の言い方をすると、グラフコアはコンピューターの脳を開発している。ノウルズとトゥーンが正しければ、膨大なデータクランチングによってではなく、人間のように情報を処理できる頭脳だ。
「何十年にもわたり、人間は機械に何をするべきか、ひとつひとつ命令してきた。だが、私たちはもうそれをしない」と、トゥーンは言う。彼によると、グラフコアのチップは、機械に学習する方法を教える。
「マイクロプロセッサが初めて登場した1970年代に戻るようなものだ。私たちは新たなインテルを作っている」
投資家のハーマン・ハウザーは、グラフコアのIPUがコンピューターの世界に新たな革命を起こすことに賭けている(ハウザーは、世界で最も広範に使用されている半導体回路設計の権利を持つARMホールディングスの共同創業者。ARMは現在ソフトバンク傘下にある)。
「コンピューターの歴史で、このような大変革は3回しか起きたことがない」と、ハウザーは言う。1回目は、1970年代のCPU、2回目は1990年代のGPU。「グラフコアは3つ目だ。彼らのチップは、世界有数の偉大なアーキテクチャだ」

レストランに行くときの「頭のギア」

ハウザーは、グラフコアの立ち上げにも間接的に大きく関係している。
2011年と2012年、ハウザーはケンブリッジ大学で英王立協会のために一連のシンポジウムを企画した。AIの専門家や脳神経学者、統計学者、動物学者が、先進コンピューターが社会に与えるインパクトについて議論するなかに、ノウルズの姿もあった。
ハウザーはノウルズを「地球サイズの脳の持ち主」と評する。また、ノウルズ自身ケンブリッジ大学の出身で、1980年代の卒業後は政府系研究所で初期のニューラル・ネットワークを研究。その後、無線プロセッサのスタートアップ、エレメント14(Element 14)を立ち上げた。
エレメント14は、2000年にブロードコムに6億4000万ドルで買収された。2002年、ノウルズとトゥーン(やはり半導体スタートアップを立ち上げた経験があった)は初めて手を組み、モバイルチップメーカーのアイセラ(Icera)を設立した。
約10年後、アイセラはエヌビディアに4億3600万ドルで買収されたが、ノウルズもトゥーンも、まだリタイアするつもりはなかった。「2人ともゴルフが下手くそだからね」と、トゥーンは笑う。
2人が次のプロジェクトをあれこれ話し合っていたある日、ノウルズはケンブリッジのシンポジウムに行ってみることにした。すると、Siriに使われることになる音声処理サービスを開発したスティーブ・ヤング教授(情報工学)が、コンピューター対話システムの限界について話をした。
そこでノウルズは、エネルギー効率についてヤングを質問責めにした。「その演算の数値精度について質問した」と、ノウルズは振り返る。「スティーブにとっては不意打ちだったようだ」。その数値がどのくらい精密かは、半導体における「エネルギーの決定要因として非常に重要な意味を持つ」。
数日後、ヤングからノウルズに1通のメールが届いた。学生たちが調べてくれて、そのシステムは64ビットのデータを使っていることがわかったという。だが、ノウルズが指摘したとおり、もっと精度の低い8ビットでも同じ計算ができることがわかったという。
コンピューターは処理する演算が少ないと、エネルギーを節約することができ、その分で、もっと多くのデータを処理することができる。それは人間がレストランに行くとき、GPSの厳密な座標を記憶するのではなく、店の名前と近隣エリアをおおまかに覚えておくことに頭のギアをシフトさせるのと似ている。
「この種の作業にぴったりのプロセッサを構築すれば、(コンピューターの)パフォーマンスを1000倍高めることができる」と、ノウルズは語る。
ヤングたちがそのアイデアにおおいに感心したのを見て、ノウルズとトゥーンはグラフコアを立ち上げることにした。資金を集めてアイデアを育て、正式に会社を設立したのは2016年だった。

ムーアの法則よりもデナード則に関心

半導体業界は今、ムーアの法則の持続可能性を議論している。半導体の集積率(したがって性能価格)は、約2年で2倍になるという経験則だ。だが、それが唱えられたのは1960年代のこと。果たして21世紀の今も有効なのか。
だが、ノウルズやトゥーンは、ムーアの法則よりもデナード則に関心がある。
デナード則は、半導体の集積率が高まっても、電力需要は変わらないというものだが、もはやこの「ルール」は当てはまらない。集積率が高まるほど、半導体はもっと熱を持ち、もっとエネルギーを食うようになる。
この問題を緩和するために、一部のメーカーは、処理能力を全開にせず、特定の用途をサポートするのに必要な部分だけ稼働させる半導体チップを開発している。
ノウルズとトゥーンは、集積回路の設計を劇的に変えて、熱の問題に対処しなければ、スマートフォンやノートパソコンの稼働スピードが落ちる可能性があると指摘する。
そのせいだろう。「私は基本的に白紙を与えられた」と、グラフコアのチップデザイナーのダニエル・ウィルキンソンは語る。「半導体デザインの世界では考えらえないことだ」
数十人のエンジニアに与えられた課題は、「処理能力をフルに使っても、エネルギー消費量は最新のGPUよりも少ないチップを設計すること」だ。

半導体のロジックとメモリーをミックス

半導体で最もエネルギーを消費するのは、データの移動と読み出しだ。伝統的にプロセッサとメモリーは分けられており、このコンポーネント間のデータのやり取りが「非常に多くのエネルギーを消費する」と、ノウルズは語る。
そこでグラフコアは、ハードウエア間でデータを移動させたとき、さほどエネルギーを消費しなくて済むように、半導体のロジックとメモリーを「ミックス」した「より均質な構造」の設計に取り組み始めた。
それからの3年間、彼らは無数の回路配置をコンピューターでシミュレートし、最終的に1216個のプロセッサコアを持つデザインに落ち着いた。ノウルズはそれを、「エネルギー資源を分ける大量のプロセッサの小島」と表現する。
こうして完成したIPUは、クラッカーほどの大きさと薄さのチップで、2018年に初めて製造された。約240億個のトランジスタを搭載しており、GPUの数分の1の消費電力でデータにアクセスできる。「チップ1個の消費電力は120ワットだ」。これは明るい白熱電球と同じくらいだ。
プロトタイプのテストとして、エンジニアのチームはまず、日常的なモノ(果物、動物、自動車など)のタグ付き画像数百万枚(スタンダードなデータ訓練モデルだ)をIPUに読み込ませた。
そのうえで、あるエンジニアが自分の飼い猫ゼウスの写真を使って検索をかけた。すると1時間もしないうちに、コンピューターはゼウスを正確に特定しただけでなく、その毛(三毛猫)も認識した。
この最初のテスト以来、IPUの処理速度は格段にアップして、現在では1秒で1万枚以上の画像を認識できる。最終的には、はるかに複雑なデータモデルを消化できるようにして、より根本的なレベルでネコとは何かを理解できるようにすることだ。
「このマシンには、『これをやれ』といった命令はしない。どのように学ぶべきかを説明して、たくさんの例とデータを与えるだけだ。監視する必要もない」とノウルズは言う。「どうすればいいかは、マシンが自分で発見するんだ」

BMWやマイクロソフト、サムスン電子が投資

グラフコアの本社ビル5階にあるデーターサーバー室では、産業用空調機が送り出す風で、窓にかかったブランドがパタパタいっている。冷蔵庫ほどの大きさの容器に収められたサーバーには、大量のIPUが使われており、いくらエネルギー効率がいいとはいっても、依然とした大量の熱を放出している。
ここにあるIPUサーバーは、64ペタフロップ(1秒間に6.4京回)の計算ができる。1度に18万3000台のiPhone Xをフルに稼働できる処理能力だ。
ノウルズとトゥーンは、このIPUに「コロッサス(巨像)」というニックネームをつけた。第二次世界大戦中にドイツの暗号を破るために英政府が開発した、世界初のプログラム可能なコンピューター「コロッサス」にちなんだ名前だ。
資金面では、グラフコアはBMWやマイクロソフト、サムスン電子などから3億2800万ドルを調達し、昨年12月に企業価値17億ドルと評価された。
チップの具体的な用途については、機密保持契約によりコメントを拒否しているが、投資家の顔ぶれを見るかぎり、自動走行車や音声アシスタント、クラウドサーバーファームなどの用途が想像できる。
だが、ノウルズが最も期待しているのは、人間に警告を与える用途だ。IPUのパワーを使えば、気候変動や医療の研究で必要とされる複雑な分析が可能になるだろう。
グラフコアは、顧客企業がIPUを使いこなすのに必要な次世代コンピューターを構築するのを助けるために、サーバーの設計図とソフトウエアツールを提供している。「私たちはコンピューターを設計するためのレシピをつけて、材料(IPU)を売っているわけだ」と、トゥーンは言う。
IPUは並列コンピューティングの概念を活用している。
通常、プロセッサを働かせるにはプログラムを書く必要があるが、チップに搭載された形でプロセッサが拡散すると(グラフコアの大掛かりな設備はプロセッサコア約500万個を使っており、一度に約3000万プログラムを動かせる)、プログラムを書くタスクが自動化される必要が出てくる。
そこでグラフコアは、膨大な演算作業を小さなデータ問題に切り分けて、「プロセッサの小島」で個別に処理し、それを海兵隊のマーチングバンドのようにまとめあげ、最も効率的なタイミングで学習内容をシェアさせる

英国が誇るテクノロジー企業に

BMW i ベンチャーズ(BMWのプライベートエクイティー部門)のトビアス・ヤンは、グラフコアのチップがBMWのデーターセンターや、クルマに使われるようになることを思い描いている。「BMWは、グラフコアが大規模かつワールドワイドな半導体サプライヤーになってほしいと思っている」と、ヤンは言う。
自動走行車は極めて多くの重要なタスクを迅速に実行しなければならないため、IPUのような半導体の主要市場となっている。ARMホールディングスの共同創業者ハウザーは、自動走行車1台につき2個のIPUが必要になると推測する。グラフコアの2019年の収益は5000万ドルに達する見込みだ。
とはいえ、大物ライバルもこの市場に参入してきている。
テスラは最近、独自のAIチップの特許出願をした。グーグルは昨年、機械学習用の一連のマイクロプロセッサを発表した。そしてエヌビディアは、市場を圧倒するGPUを改良して、精密性を低下させ、効率を高めた(つまりグラフコアのIPUに似た)チップを作っている。
「みんなエヌビディアの門を叩いている」と、調査会社ガートナーのアナリスト、アラン・プリーストリーは言う。
「グラフコアはいい位置につけているが、エヌビディアの市場プレゼンスと比べると、まだ非常に小さい競争相手だ。このため、IPUは仕事量ではエヌビディアのGPUより上かもしれないが、顧客は『最高』よりも『これで十分』を選ぶ恐れがある」
もうひとつの大きな問題は、IPUによってコンピューターの性能が本当に現在の100倍になったときに生じる、倫理的なジレンマだ。トゥーンとノウルズは、その技術が兵器や権威主義国家の監視に使われる危険性を懸念している。
だが、究極的にはその用途を制限するのは政府だ。「マシンパワーは私たちに飛行機やクルマをもたらしてくれた」と、ノウルズは言う。「だがそれは戦車ももたらした。いずれ社会が、善悪のバランスを判断する必要があるだろう」
今のところ、グラフコアは、IPUのパワーを知らしめる無料ソフトウエアの開発に力を入れるとともに、IPOを視野に入れて、ビジネスを拡張している。
グラフコアでは、2017年末の5000万ドルの資金調達や、2018年の1000万ドルの売上達成など、大きな節目を達成したときシャンパンを開けることにしている。
ノウルズとトゥーンのお気に入りは、ウィンストン・チャーチルが愛したシャンパン「ポル・ロジェ」。それは、自分たちが英国にとって初めての、アップルやアリババ並みの巨大テクノロジー企業になれるかもしれないという誇りを示している。
「ポルから始めて、ポルで締める」と、ノウルズはクックッと笑いながら言った。「IPOときには、最大のボトルを開けるぞ」
原文はこちら(英語)。
(執筆:Austin Carr記者、翻訳:藤原朝子、写真:©2019 Bloomberg L.P)
©2019 Bloomberg L.P
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.