従業員の幸福感と生産性を高めるものは何か。コーチングサービス会社のベターアップが科学を武器にその本質を探る。
3日間、同僚に「親切にする」実験
この4月、私はある実験に参加した。3日間にわたって、あらゆる機会を見つけて同僚に「親切にする」という実験だ。
私は同僚の論文の推敲を手伝ったり、上司の事務作業を引き受けたり、システム管理の担当者にクッキーを買ってあげたりした。毎晩これらの行為を報告書にまとめて提出し、3日間の実験期間の前後と最中に、気分やストレスレベル、孤独感や働きがいについての質問に答えた。
普段自宅勤務をしている私の実験結果は驚くべきものだった。企業に利益をもたらす自発的な行動をする「組織市民」としての意識が50%向上したのだ。
私が参加したのは、カリフォルニア大学リバーサイド校が実施した、社会的なつながりに関する研究の簡略版だ。
職場の分散化や自宅勤務が増えるなか、孤独感が仕事の質を落とすことが複数の研究で示されている。
行動科学者たちは、異なる種類の交流がいかに帰属意識や孤独感などに影響するかに関心を寄せている。面と向かっての交流はどれほど重要なのか、交流の頻度と質ではどちらの方が大きな影響力を持つのかなどの問題だ。
今回のような実験において、一般に研究者たちは報酬目的の少人数の新人社員を参加者に選ぶことが多く、その結果は専門誌で発表される。言い換えれば、従業員の人生をより良いものにするための研究は多くの場合、実際に職場で働いている人々が参加することなく行われ、その結果を彼らが目にすることもないのだ。
コーチングサービス会社ベターアップ(本社サンフランシスコ)のアレクシ・ロビショー共同創業者兼CEO(33)は、そこに根本的な問題があると考えた。だから、そうした知識を研究所の外に解き放ち、「実際にそれを活用して改善に役立てることができる管理職たちの心に響く」ようにしたかったと彼は語る。
そこで3年前、ロビショーは従業員たちに野心的な新プロジェクトの立ち上げを通知した。100年近い歴史の中でトランジスタやレーザー、携帯電話技術などを開発してきたベル研究所(現在はノキアの子会社)を参考に、ベターアップ独自の取り組みを始めるというものだ。
行動科学というテクノロジーの開発
ベル研究所が目指したのはテクノロジーの明るく確固たる未来だったが、ベターアップの新プロジェクト「ベターアップ・ラボ」がターゲットとするのは「マネジメント」だ。
ベル研究所は新たなテクノロジーを開発するだけでなく、それが人々にどのような影響を及ぼすのかを理解したいと考えてきた。そして実業界のリーダーや学者たちは19世紀から、科学原理を活用して労働者を支援する方法を模索し続けている。
それでも多くの人にとって未だに仕事はつらいものだ。ギャラップ社の報告によれば、過去18年の間、自分の仕事に愛着を持って取り組んでいる従業員は平均で全体の30%しかいない。
問題はそれだけではない。スタンフォード大学の教授で『ブラック職場があなたを殺す』(邦訳:日本経済新聞出版社)の著者であるジェフリー・フェファーは「現在、アメリカでは慢性疾患への医療費支出が医療費全体の86%を占めている」と指摘する。
「慢性疾患は主にストレスや、ストレスに起因する行動が原因だ。そしてストレスの原因となるのが仕事だ」
ベターアップは「行動科学というテクノロジーを開発するテック企業」だとロビショーは言う。ベターアップ・ラボはその研究部門として、同社の製品をより豊かなものにする科学を生み出している。そしてこの新たなタイプの研究開発は、さまざまな協力者を引きつけている。
ラボの科学顧問にはポジティブ心理学の生みの親であるマーティン・セリグマンや、ペンシルベニア大学ウォートン校の心理学者アダム・グラント、グーグルのリーダー育成アドバイザーを務めるフレッド・コフマン、ゼロックスのパロアロト研究所(PARC)の元ディレクターであるジョン・シーリー・ブラウンなどが名を連ねている。
もしもロビショーが科学を実践的な行動に変えることができれば、他の企業にとっても、いかにしてより楽しく健康で生産的な職場を実現できるかが解明されることになる。「科学を突き詰めれば、人生を変えることができる可能性がある」と彼は言う。
ロビショーは、昨年10月にフィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミーで開かれたベターアップのカスタマーカンファレンスに宇宙服姿で登壇。行動科学の「最後の未開拓地」についての話をした。
プリンストンの研究で、講演者と聴衆の脳内で同時にニューロンの発火が起こることで、話の内容がより記憶に残りやすくなるのだという。宇宙服はその役に立つというわけだ。
その5カ月後、フィラデルフィアのコーヒーショップに姿を現した彼はジーンズ姿だった。彼は人間の潜在能力について語り、時折アインシュタインやマルクス・アウレリウスの言葉を引用するなどテック企業のCEOらしからぬ一面も見せた。
挫折が導いたポジティブ心理学への道
ロビショーが人間のパフォーマンスについて熱心に学ぶようになったのは、自らの挫折がきっかけだった。
26歳の時、働いていたスタートアップ企業のSocialcastが世界的なソフトウェア企業のVMwareに吸収されたことで、ロビショーは「一夜にして、おそらく同社史上最も若い幹部の一人になった」。だがその20カ月後には「ストレスですっかり参っていた。精神を病んで会社を辞めた」と彼は語る。
幸いにも自分探しをする間、生活できるだけの蓄えはあった。そこで彼は、高校の頃の情熱に立ち戻った。友人と一緒に立ち上げた、P2P(ピアツーピア)のリーダー育成組織だ。
燃え尽きて会社を辞めてから9カ月、そこでボランティアをして(今でも続けている)「16歳や17歳の若者が重要な時期を乗り越える手助けをした」と彼は言う。「その一方で、自分は挫折や失望の中にあった」
ロビショーはセラピーやコーチング、自己啓発セミナーやさまざまな自助戦略を試した。スペインにあるキリスト教の聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼にも行った。
そしてむさぼるように読書もした。とくに心に響いたのは、セリグマンのポジティブ心理学(いかにして有意義な生活を送り自分のいいところを伸ばし、成功をおさめるかを探究する心理学)についての著書だ。彼はパーソナルコーチを雇い、困難からの回復力や認知処理機能などの関連知識も学んだ。
そしてたどり着いたのが、企業が従業員を成長と成功に導くためには、スキルも感情も含めた「全人格アプローチ」が必要だという考えだ。「人は、仕事が自分の人間としての成長につながると感じるときに、仕事に最も意義を感じる」とロビショーは言う。「だが企業は、従業員のキャリア開発にばかり投資を行っている」
そこで彼が編み出した解決法が、従業員に研究に基づく一対一のコーチングを提供することだった。
こうしてロビショーはエドゥアルド・メディナと共に2013年にベターアップを創設した。現在、同社は200人近い従業員を抱えるまでに成長。セラピストや企業の管理職指導の資格を持つ契約コーチは1000人以上にのぼる。
顧客にはエアビーアンドビーやロジテック、ワーナーブロスなどの企業が含まれ、スレッショルド・ベンチャーズ(旧DFJ)やライトスピード・ベンチャー・パートナーズなどから1億ドル以上を調達した。
エビデンスに基づくマネジメントを
十分に成功しているベターアップだが、新たなタイプの研究開発ラボの立ち上げはつねに計画の一部だったという。「つねに科学が最優先だった」とロビショーは言う。「自己改善や自助努力と私が築きたかったものの違いは、再現性と信頼性。つまり裏づけだ」
マネジメントのレッスン(空港の書店に並んでいる本や会議の檀上で発表されるような類のもの)の問題は、その大部分が確かな証拠に乏しい「聞き伝え」なことだ。
「ベストプラクティス」とは一般に「ほかの組織はそうしているが、うちの会社に最も効果的であるとは限らない実践」だと、コンサルティング会社マーサーのコンサルタントで、エビデンスに基づくマネジメントの実践を促進する非営利組織サイエンスフォーワークの創業者兼取締役社長のロレンツォ・ガリは指摘する。
「トップ企業のグーグルがこうしているから、これがベストプラクティスだというふうにね」。あるいは多くの組織でよくある実践を意味することもある。「この場合、それはベストプラクティスではなくて、最も一般的な実践ということになる」とガリは言う。
まるで『プルタルコス英雄伝』だとロビショー。「カエサルに絡めた記述が多く、こうすれば君もカエサルのようになれるという調子だ」と彼は言う。「欠けているのは、何千人もの人が実際にそうして、本当にカエサルのようになるかどうかという検証だ」
ベターアップ・ラボとそのパートナーたちは、約100の顧客企業で働く何万という人からエビデンスを集めている。彼らは異なる業界、組織構造や文化の幅広い職種に就いている人々だ。
特定の疑問について調査を行う場合、ベターアップは顧客基盤や社外従業員の複数のセグメントについて研究し、どの実践が効果的かについての仮説を立てる。そして従業員と一対一で向き合うコーチングなど複数の異なるアプローチを試す。コーチたちも、調査員が信頼性のあるデータベースを構築するのを手助けする。
同社はまた、アマゾンのクラウドソーシングサービス「メカニカルターク」を通して集めた、大勢の労働者についてのオンラインデータベースも利用している。同サービスを利用することで、顧客により正式な提案を展開する前に実行可能性を検証することができるという。
これほど大規模かつ多様なグループにまたがって研究を行う能力を備えていることが、(ペンシルベニア大学の)グラントが昨年ベターアップの科学顧問になった理由だ。
グラントは普段「ひとつの企業を知るのに何カ月もかけている。データを集め、組織文化やリーダーのタイプなどが異なる環境だと結果はどう違うのかを考えている」と言う。だが、ベターアップと協力することで「とてつもないスケールメリットが得られる可能性がある」。
独自研究や学術機関と提携も
ベターアップでは、社内で確認された問題や顧客からのインプットを基に研究を行うこともある。あるいは自社と関連のある研究に取り組んでいる学術機関と提携することもある。
調査や研究の所見は実践としてコーチングに反映させ、専門誌にも非学術系の記事や本にも発表する。研究成果をできる限り多くのところに広めるのも「当社の道徳的使命の一部」だとロビショーは言う。
成功や困難からの回復についての研究の第一人者であるマーティン・セリグマンは、仕事をしている人々は将来について考える能力を磨いたほうがいいと考えている。彼はこのスキルを「見通し力」と呼んでいる。
「私たちの脳は、起こり得る未来について考えるようにできている」とセリグマンは言う。「みんなもっと思い描くシナリオの視野を広げ、そのシナリオをもっと上手く検証できるようになるべきだ」
セリグマンは最近、5種類の創造性がこうした考え方の基盤となるとの仮定を示した。そのひとつが「図地反転知覚」だ。
これはものごとの背景にインスピレーションを見出す感覚で、たとえばスタートアップ企業が自社で開発中のビデオゲームではなく、その開発に使われているメッセージツールからヒントを得てヒット商品を生み出す際に発揮されたことがある(こうして生まれたのがスラックだ)。
同じに見えるものが本質的に異なることを明らかにする「スプリッティング」もそのひとつ。たとえば買い物アプリのクリエーターたちが、セレクトした衣服の共有は小売体験の一部というだけではなく、それ自体が最終目的だと気づく際に発揮された(こうしてピンタレストが生まれた)。
セリグマンは、見通し力の熟達度を測定する手段や、人々が自分の仕事に応じて必要な創造性を向上させるのを手助けするツールを開発したいと考えている。だが心理学者で教育者の彼は、自分はビジネスのことをほとんど知らないし、実際に企業で働く人々を対象に自分のアイデアを試すのは難しいだろうと認める。
「私はもう55年研究をしているが、科学者として一番もどかしいのは、たくさんの優れたアイデアが活用されることなく放置されていることだ」とセリグマンは言う。「それは私に『ビジネスの現場でこういうことは起こるだろうか。このアイデアをどうやって生かせるだろうか』と聞ける相手がいないからだ」
研究結果をビジネスの現場で実践
だが今では、セリグマンにも協力相手がいる。2017年後半、ベターアップのチーフ・イノベーション・オフィサーであるガブリエラ・ローゼン・ケラーマンが、セリグマンにプロジェクトのコンサルタントを務めて欲しいと依頼。セリグマンはほかの研究者たちを雇い、共同で自らのアイデアを検証している。
マイクロマネジメント(上司が部下の業務を逐一監視したり細かなことまで干渉したりすること)のような「疾患」についての診断ガイドラインを提供する、DSM(アメリカ精神医学会による精神障害に関するマニュアル本)のビジネス版などの資料を作成したいと彼は考えている。
セリグマンは四半期ごとのオフサイトミーティングも支援している。著名な思想家たちが集まり、心理学や組織行動に関連のあるテーマについて議論を行う場だ。
2018年1月に開催された1回目のオフサイトミーティングでは「マターリング(意義づけ)」に焦点が当てられた。
セリグマンが説明するように、人は仕事が自分に意味や目的をもたらすと確信できれば、より幸福を感じパフォーマンスも向上すると多くの研究が結論づけている。だが、意味や目的というのは曖昧なコンセプトで、測定も管理も難しい。
「『あなたの人生には意味がありますか』と聞かれたら、私には答えがわからない」とセリグマンは言う。「だが『あなたは重要な存在ですか』と聞かれれば答えられる。企業の中で自分が重要な存在だと感じる人ほど、いい仕事をするという仮説が立てられた」
ミーティングの参加者たちは調査ツールを作り出し、最終的には測定ツールも作り出した。
オフサイトミーティングに触発された多くのプロジェクトに不可欠なのが、創造性だ。この議論を主導している一人がブラウンで、彼は現在、シンクタンク「センター・オブ・ザ・エッジ」の共同代表を務めている。
ブラウンは、神経科学や人工知能、認知科学がいかにして、より優れたコーチングにつながるかに関心を寄せていると語る。
「PARCで我々が行った研究の多くは、社会的・技術的な視点からのものだった」と彼は言う。「今後はその枠を超えて、人の心がどう機能するのか、複数の人の心が合わさるとどう機能するのかを今まで以上に理解していかなければならない」
次のテーマは人間とロボットの共存
ベターアップの研究から、顧客は何が幅広く効果を上げるのかだけでなく、自社の従業員にとって一番効果があるのは何かを学ぶことができる。
ベターアップは「従業員の心理や行動についての、きわめて詳細な診断結果」を作成するとケラーマンは言う。同社はまた「当社が次に研究する可能性のある問題がこちらです。この中で、御社にとって最も影響力を発揮しそうなのはどれでしょうか」などと、顧客企業に意見を求めることもあるという。
同社の次なる大きなテーマには、職場における人間とロボット(およびその他の先進技術)の共存などがある。
私はロビショーに、もしも各企業がより少ない人員でやっていけるとしたら、そもそも人間の潜在能力に注目することに意味はあるのかと尋ねた。
「いかにしてテクノロジーを仕事の再人間化に役立てることができるか、という研究が私の目標のひとつだ」と彼は言う。「正しく使えば、テクノロジーは人間の敵ではないと私は考える」
だが、その実証は難しい。非製造業分野の複数の企業が、人工知能やロボットを導入して従業員を大幅に減らしている。「労働力がハイブリッド化してきている」とロビショーは言う。「それでも、そこまで普及しているわけではない」
ではベターアップは今後、今の時代のマネジメントに関連した最も差し迫った諸問題について、証拠に基づくガイダンスを作成していくのだろうか。そう尋ねると、ロビショーは少し弱気になってこう答えた。「当面は研究所の中だけで行うことになるかもしれない」
原文はこちら(英語)。
(執筆:Leigh Buchanan/Editor-at-large, Inc. magazine、翻訳:森美歩、写真:fcscafeine/iStock)
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This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.