【太田雄貴】フェンシング界の革命児が語る、旧態依然の組織の変え方

2019/6/24
オリンピックで銀メダルを獲得するなど、選手として日本のフェンシング界に輝かしい実績を残した太田雄貴氏。引退後も日本フェンシング協会会長と国際フェンシング連盟副会長を務め、旧態依然とした業界にイノベーションを起こしている。

太田氏は現役を引退後、なぜ「給料ゼロ」でも運営に力を尽くすのか。そしてどのような「巻き込み力」で人を魅了しているのか。目指すゴールを含めてお話を伺った。

フェンシング界を、引退後も当事者として変えたい

──太田さんは2016年にフェンシングの現役を引退し、2017年に日本フェンシング協会の会長に就任されました。引退から会長就任まで、どのような経緯があったのでしょうか。
僕は2016年のリオデジャネイロ・オリンピックに世界ランキング2位で出場し、初戦で敗退しました。
あの試合は今でも夢にも出るんですよね。一つひとつのプレーを思い出し、なぜあの時あの瞬間あのプレーを選択したのか。もっと泥臭いプレーができなかったのか、と。
ものすごく悔いが残っていますけど、その一方で、次の4年も選手を続ける気力はなかったので、引退を決断しました。
次はどうしようかなと思っていた矢先、舞い込んだのが日本フェンシング協会の理事のお誘いです。僕はもともと現役を引退しても東京オリンピックは成功に導きたいという思いがありました。
全日本スキー連盟の皆川賢太郎さんから「業界を大きく変えたいなら外野に回ったらダメだ」と言われていたので「協会に入ってフェンシングをエンタメに昇華したい」「改革が手付かずのフェンシング界を自分のアイデアで変えたい」と思うようになり、理事を承諾しました。
そして、理事になった2カ月後に会長に就任。所属先の森永製菓との両立がむずかしくなったため退職し、会長職に専念しました。
あれから2年がたち、特に大会やPRマーケは新しい取り組みをして話題性を作ることができたと思います。自分に点数をつけるなら、60点くらいかなと。
ただ、フェンシングの普及や育成はノータッチ状態なので、まだまだ伸びしろがあります。コーチの人数が限られた中でどう普及させていくか、誰に何を届けるべきなのか、どれくらいのニーズがあるのかなどを、今整理しているところです。

既存の概念を疑って、課題を解決できるアイデアを実行

──昨年の大会は体育館ではなく「東京グローブ座」で開催され、鮮やかな照明や音楽でエンタメ化したことで話題になりました。どのような思考で新しい取り組みをされたのでしょうか。
2018年12月9日、東京グローブ座で開催された「第71回全日本フェンシング選手権大会個人戦 決勝戦」。チケットは40時間で完売した。(写真: 竹見脩吾)
あの取り組みは、試合を派手にするために劇場で開催したのではなく、「客単価を上げられない」という課題に対してのアプローチでした。
体育館の硬い椅子での観戦に5000円は払いたくないけれど、劇場なら5000円を払ってもいいかもしれない。
また、フェンシングに照明は欠かせませんが、イベント会社から照明を借りて体育館にセットするのは結構大変なんですね。
だけど劇場なら、初めからクオリティの高い照明や音響がそろっています。
もっと言えば、大会は15面のピスト(コート)を用意しますが、決勝戦では1面しか必要ありません。
既存の形式でやろうとすると、体育館に設営した14面を撤去して観客席を作る夜通しの作業が発生するのですが、決勝戦を別会場にしてしまえばその必要もなくなります。
今までも「会場を別にしてはいけない」というルールはなかったのに、勝手に「同じ会場でやるものだ」と思い込んでいたんですよね。こうした既存の概念を疑って、課題を解決できるアイデアを形にしました。
それから、この大会のPRに関しては、「東京グローブ座、チケット単価、売り切れ」の切り口でニュースにすることを決めていました。
元スポーツ選手が「東京グローブ座で試合を演出した」というギャップを作ったことが話題性につながったと思っています。

意思決定の場に参加してもらい、当事者意識を育む

──アイデアが浮かんでも協会を動かすのは簡単ではなかったと思います。どのようにして、「前年踏襲」で運営されていた旧態依然の体制を変えたのでしょうか?
会長に就任した当時の理事会は、意見が10対10で割れてしまうような対立状態にありました。これでは何も決まりません。
だけどそれは、ほとんどがミスコミュニケーションの結果で、「フェンシング業界を良くしたい」というベースはみなさん同じだった。
だから、僕が理事全員と個別に話し、圧倒的な熱量で訴えかけるところから始めました。
その上で、全員が納得して取り組める状態をつくるために、観客を前年の10倍、つまりいつもは150人しかいなかった観客を、1500人集客した全日本選手権の開催をコミットした。
ガラガラだった大会が満員御礼になるという成功体験を得たことで、理事たちも自信を持ち、協会がまとまり始めたと思います。その意味で、「結果」は重視しました。
もう一つポイントになったのは、意思決定の場に理事全員が参加して物事を決めていくプロセスを大切にしたことです。やはり、勝手に決定したものを後から見せられても、あまり良い気はしないですよね。
だから、具体的なAプランとBプランを理事会に持って行き、意思決定の当事者になってもらいました。もちろん、自然と(私が進めたい)Aプランを選ぶような工夫はしましたが(笑)。
組織体制を変え、メンバーを当事者として巻き込んでいく方法は、ビジネス界にいるたくさんの経営者の友人たちから、アドバイスをもらいましたよ。

フェンシングで身につくロジカルシンキング

──アスリートだった太田さんは、どのようにしてビジネスパーソンとの人脈を築いたのでしょうか。
北京オリンピックでメダルを取ったとき、メディアの人から「メダルを取った今なら誰でも会ってくれるよ、会いたい人はいないのか」と聞かれて、当時とがっていた22歳の僕は「いません」と答えたんですね。
でもこれがずっと頭に残っていて。たしかに現役時代に友達になれば引退しても友達のままだけど、引退後に「会いたい」と言っても誰にも相手にしてもらえず、会うこと自体がかなわないかもしれません。
だから2012年のロンドン・オリンピックでメダルを取った後、会いたい経営者に片っ端から会いに行きました。それ以来、たくさんの方と仲良くさせてもらっています。
──なぜ経営者だったのでしょう。
引退したらビジネスをしたいという思いがあって。
だけど、東京オリンピックが決定したとき、僕は招致のプレゼンを行った当事者。引退したからといってフェンシング界からいなくなるのは無責任です。
だから、2021年くらいまでは業界を引っ張り、東京オリンピックで日本人メダリストが複数人生まれることを信じて、「フェンシングといえば太田」ではない状態が作れたら、次の挑戦をしたいと思っています。
──2022年には起業しているかもしれないですね。
どのタイミングかはわかりませんが、そのつもりで事業プランを持ってやりたいですね。
ただ、留学を諦めて現役を続けた経緯もあるので、日本を離れて学び直したい思いもあります。ほんと、30歳過ぎているのに、好き放題ですよね(笑)。
フェンシングを続けて良かったと思うのは、学ぶ癖ができたこと。戦略と戦術のスポーツなので、知識を埋め込むのではなく、課題を見つけて解決する癖がついているんです。
世界に勝てないのはなぜか、勝つために変えられるものは何かと物事を分解し、ポイントを絞って勝負する。
ビジネスも同じで、どこにチャンスの芽があるかを調べて、仮説を立てて実行し検証する。
──フェンシングでロジカルシンキングを学んでいた。
そうです。フェンシングの選手はみんなそうで、戦略的に物事を考えます。
これは、お子さんを持つ親御さんにぜひアピールしたいポイントです。フェンシングを通じて将来社会に出たときに役立つスキルが身につくとは、ほとんど知られていませんから。

目指すのは、競技人口とファン人口の合計が5万人の競技

──太田さんは、フェンシング界がどんな状態になることがゴールだとお考えですか?
僕らは野球やサッカーのようなメジャースポーツにはなれないと自覚しています。また、マイナーでも、卓球のようにプロリーグを持つ必要性もないと思っています。
目指すのは、メダリストが毎回生まれて、競技人口とファン人口がある程度の母数になって、それをスポンサー企業が魅力に感じ、やってみたい子どもたちが増えるための適切なサイズ。
そのサイズになれば、僕が抜けても大丈夫だと思っています。
──具体的にどのくらいのサイズでしょう?
今まさに経営戦略の人や兼業・副業で採用した人たちと一緒にその数字を算出しているのですが、おそらく競技人口とファン人口を含めて5万人だと考えています。
ちなみに今は6500人なので、約8倍ですね。
──最後に、33歳の太田さんから同世代の読者に向けてメッセージをお願いします。
20代後半から30代半ばは、転職や結婚など何かしらの変化が起こりやすい時期だと思います。そんな中、自分があまりうまくいっていないと、隣の芝が青く見えることもあるでしょう。
だけど、うまくいっている人にも必ず悩みがあり、長いこともがいてようやく浮上したタイミングなだけかもしれません。
僕も、基本的にはずっと潜っていて、たまに頭が出るのを繰り返しているだけ。だから、僕らの世代は出る杭を打つ社会から、人を応援する社会に変えていくべきだと思っています。
30代40代で将来の着地点は決まるので、出る杭を打って無駄なエネルギーを消費するのではなく、ポジティブなことにエネルギーを使えたらすてきですね。
それから僕は小学3年生でフェンシングを始めたとき、父親から「継続は力なり」と言われ、その日から4300日、13年半の間、一日も練習を休ませてもらえませんでした。
でも続けたから今がある。
日々の仕事や生活の中で、続けて意味があるのかなと疑問に思うことはたくさんあるでしょう。でも苦しくても続けることで、違う世界は必ず見えるはず。
だから、簡単にやめないことは本当に大切だと思いますよ。
(取材:木村剛士、文:田村朋美、写真:北山宏一、デザイン:砂田優花)