「死にたい人」の背中を押すなかれ
コメント
注目のコメント
コメント欄があまりにも秀逸でした。
「一人で死ね」と言っているのではないです。
「人を殺さないで」と言っているに過ぎないです。
通常の場合、殺される人(やその家族友人)の苦しみに思いを馳せると、実行には移さないですが。(字句修正)
【追記】
今回二人の方が犠牲になられました。軽々に言葉にできないほどの時間を御遺族は今送っておられると思います。
お二人のうちの一人は11歳のお嬢さんでした。
NPには同じ年頃のお子さんをお持ちの方もいるはずで、とても他人事でなく、pickすら辛いとお考えかもしれません。だからpick数も減っているのかもしれません。
百万回叫んでも、叫ぶ喉が裂けても愛する家族が二度と目を覚まさないという苦しみに、せめて仮通夜も済んでいない今、ほんの少し想いを馳せる行為を許して頂きたいです。
誰も自死を選んだ加害者に想いを馳せるなと言っていない。自死も壮絶な死です。加害者も地獄の中にいたと想像できます。想像力はありますよ。
藤田氏の論考は事件当日です。御遺族は一体耐え難い思いをどうしたらいいんです?「控えてもらいたい」と言われてもね。あまりにも想像力が欠如しています。
加害者への想いと想像力をもつような暖かい方ならどうか、加害者に対してお持ちの感情の1%でいいから、無念に亡くなられたお二人と御遺族に想いを馳せて頂けませんか。僭越ながらお願い致します。他の記事にも似たようなことを書いたのですが、
「一人で死ぬべき」という発言には、言葉を向けられた「あなた以外が死ぬこと」と「死なないこと」の差に較べて「あなたが死ぬこと」と「死なないこと」の差は小さいという言外の意味が含まれているように思うのです。
もちろん自分で死ぬのと他人に命を奪われるのでは大きな差があるけれど、同じく人間の死であるのは忘れてはいけない気がするのです。
喜んで自殺をする人はいなくて、自殺もやはり不本意な死です。
先日、繁華街で飛び降り自殺をする人に何人もがカメラを向けていたというニュースを見ましたが、それは無関心から起こる行動のように思えます。
そういった無関心が「一人で死ぬべき」という言葉にも表れていませんか?
そしてそれが、人を殺すような人も絶対に殺さないような人も含めて、自殺願望を持つ人に疎外感を与えているような気がしています。鉄は熱いうちに打て。
ほとぼりが冷めてからでは効果が薄いので、
問題提起のタイミングとしては適切だと思います。
テレビやインターネットという媒体は「不特定多数」の人が見るもの。
遺族の方も居れば、明日死のうかと追い詰められている人も居る。
このタイミングでは、後者の方が寧ろ世の情報に敏感になっているものです。
そういう想像ができるかどうかじゃないでしょうか。
遺族に哀悼の意を伝えたいのであれば、
直接伝えれば良い。
不特定多数の人間が見る媒体上で、
藤田氏のコラムに反感する形で表すものじゃない。
誰かを非難したりいがみ合っている場合じゃないでしょう。
それによって生み出されるものは、新たな負の感情です。