「本質的には」が口癖の人は思考力が高い - とにかく考えることにコミットする
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注目のコメント
「本質的」って私もたまに使ってしまうんですが、どちらかというと、「自分の考えている軸で評価した場合にこっちの方が大事」と思っている時に、ちゃんと理由を説明できない時に面倒になって乱暴に評価する時(そんな適当な評価をしてもよいくらい適当な対象であることが多い)に仕方なく使うことが多いです。
本質的か本質的じゃないかって、かなり恣意的な評価なので、なんとでも言えますからね。やたらと「本質的」を使ってくる人はあまり信用しないです。
"物事には常にその本質が存在する。考え抜くことによって誰でもいつでも、その本質に到達することができる。"
これはかなりヤバイ考えだなぁ。
「コミット」って、RIZAPが出てきてからニュアンスが変わってきて、「とりあえず30万円くらい払って1ヶ月は我慢して頑張る」くらいの意味に聴こえてしまう笑 コミットしなければ考えられないならば、考えない方がマシ。そもそも一般的な意味の思考力というものは、鍛えて向上するものなのだろうか。
良い入門書→良い専門書→本質
のようにチャート図にしてしまうと、なんともテクニカルで陳腐に感じてしまう。そんな単純なステップで本質にたどり着けるような問題意識は、既に「その2冊」を読んだことがある多くの人が本質にたどり着いている。
"ある東大の教授は、掃除はリエントロピー、つまり意識の凝縮であると指摘する。"
誰だよ!連れてこい!「リエントロピー」って何?
古典は楽しいけど、今から考えると前提が間違っているものも多いので、古典は古典として楽しむべきもので、今に生かそうとするとおかしなことになることもしばしば。
私はきれいな部屋よりも雑然とした部屋の方がはかどります。中身はいいものですが、タイトルがあまりにも...
「本質的に」と言っている人で、本当に本質を語る人は意外と少ない。
古典を読むという発想はとても共感できる。
自分の思想の根本が一体どこにあるのか、歴史的・古典的な変遷を辿ると意外と面白いことに最近気づいた。
学生時代に古典や歴史を避けていた自分が恥ずかしい。「考える」「書く」「話す」⇨本質の追求!
「古典を勧めるのは、現代まで読み継がれているという点で、物事の本質を突いているからだ。」
ちょうど今日、1980年に発行された砂原茂一著 岩波新書 "リハビリテーション" という比較的古い本を読んでいました。約40年前の本だからといって現在の本に劣るとは言えない内容でした。寧ろ本質に迫る内容が整理されていました(今は情報が多すぎて本当に大切な事を整理する事が難しくなってきていると思います)。
本を "読んで" 、内容を参考にブログの記事を "考えて" "書いて" みたところです。あとはなんらかの形で "話す" 予定。確かに、このプロセスによってしっかりと本質に迫れる感覚があります。
追伸.
池上彰さんの、"伝える力"(PHPビジネス新書) で、"深く理解していないと、わかりやすく説明できない" という事が書かれています。
それってつまり
"わかりやすく説明できる" という事は
"深く理解できた" ということですね。
どうすれば"わかりやすい説明"になるか考えて書く事も深く理解する事に繋がるということです。
そしてそれを、話した時に相手に伝わるのであれば、自分が"深く理解する事ができた"という事ですね!