ドラマ「バイプレイヤーズ」の撮影中に俳優・大杉漣が急逝。そのドラマの監督をしていたのが松居大悟だった。
松居とは何者か。映像監督で、劇団の主宰者で、脚本家で、俳優。とにかく「表現」することに渇望しているのだ。
自分の世界観を分かる人にだけ分かってもらえたらいいと思っていた。それが今、多くの人に愛される作品を作りたいと感じている。
文:藤井誠二、写真:植田真紗美
 東京・渋谷から地下鉄で数駅の静かな住宅地。築50年近いという、レトロ感溢れる低層マンションに、松居大悟(まつい・だいご 33)は一人で住んでいる。映画のDVDや本が雑多に積み上げてあり、お世辞にも片づいているとはいえない。大型のテレビモニターにソファ。大好きなチャップリンや尾崎豊のポスター、映画のチラシ、アイデアを書き留めたメモ、絵コンテやらが無造作に壁に留めてある。演劇から映画、俳優、物書きとして、何かを「表現」することを寝ても醒めても渇望する松居のアタマの中をのぞき込んだかのようだ。
 雑然とした部屋の片隅に、一枚の写真が飾ってあった。俳優・大杉漣(享年66)との写真だ。松居が監督を務めたドラマ「バイプレイヤーズ〜もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら〜」(テレビ東京)の撮影中に、二人で打ち合わせをしているところだという。大杉はこのドラマの座長でもあったが、撮影終盤に急逝した。今年2月の出来事だった。
「漣さんが亡くなる2日前に、気付かず撮られていたものです。シーズン2の最終話の撮影中でした。『監督ちょっと』って呼ばれて、『このセリフ、こうしたほうが伝わりやすくないかなあ』と相談されて。ぼくが『こうします』と提案すると、『あ、それいいね』って話しているところです」
 漣さんは息子ぐらいの年齢のぼくの意見にも真剣に耳を傾けてくれたんですよね──。そう言って松居は写真が入った額を手にとった。
「漣さんが亡くなる前日に撮影していたときに、『松居さん、ぼくら俳優は勝手に芝居しているんで、好きなように撮ってくださいね』と何げなく言われたんですが、その言葉が亡くなったあとで、ぼくの中で大きな意味を持ってしまった。自分が漣さんの最後を撮ったことも妙に背負ってしまいました」
 監督と演者という関係だったが、まるで大杉漣の死に水をとるような別れ方が、松居の心に棘のようなものを残した。
表現者として 肩書きや代表作を変え続ける
 松居の名が世間的に知られるようになったのは、2011年にコミックスが原作の映画「アフロ田中」の監督をしたことだろう。それを皮切りに、尾崎世界観率いる「クリープハイプ」のメジャーデビュー以降のビデオクリップを数多く手がけ、他にも映画「アズミ・ハルコは行方不明」「アイスと雨音」など、これまでに何本もの映像の監督をしている。
 キャリアのスタートは、大学時代にNHKの連続ドラマの脚本を担当したこと。NHKでの連続ドラマ脚本家としては最年少となった。映画・映像監督としての才能が業界で高く評価されているだけでなく、今年7月から放送されたドラマ「グッド・ドクター」(フジテレビ)で、研修医の役を演じた俳優でもあるし、大学時代から続ける劇団「ゴジゲン」の主宰者でもある。
 本人曰く「それまでは『アフロ』のイメージが強かったんですが、今はバイプレイヤーズの松居と言われるようになった」ほど、「バイプレイヤーズ」は松居の代名詞を上書きした。監督、俳優、劇団の主宰者とマルチにこなし、「バイプレイヤーズ」に登場する大杉を始め、遠藤憲一、田口トモロヲ、寺島進、松重豊、光石研ら、アクの強い6人の俳優たちを見事に演出し、撮影現場を取り仕切ったと聞くと、器用そうなイメージが湧くかもしれない。しかし33歳の監督は、少年期から連続する屈折と再生のただ中にある。
母と兄との3人生活。母に連れられ演劇を知る
 福岡に生まれた松居は、小学生の頃から漫画ばかり読んでいた。『ドラえもん』など藤子・F・不二雄の作品にはまった。やがて自分でも描くようになり、漫画家になりたいと夢見た。「今でも漫画家になる夢は捨てていませんよ」と松居は笑うが、映像のコンテを練るときは漫画のコマ割りのように考える。
 中学1年のとき、家族の生活に変化が起きた。専業主婦だった母親(59)は、地元で「松居トコ」名でエッセイ集を出版、名が売れていた。そのままメディアで活動することに専念したいと思ったが、女は男の一歩うしろに下がっているべきとの考え方の夫はそれを認めず離婚、トコは執筆やテレビ、ラジオなどの仕事に引っ張りだこになりながら、長男の秀幸(35)と大悟を育てる。
 忙しさに心身をすり減らしながら、トコは松居を連れて演劇を観に行った。トコは言う。
「私が演劇が好きでしたから、福岡に来る商業演劇をいっしょに観に行きました。小学生のときから大人が観るものを嬉々として観ていました」
 阿佐ヶ谷スパイダース(長塚圭史・主宰)、G2(演出家)さんの芝居、蜷川幸雄さん、三谷幸喜さん、劇団四季、ラーメンズ、鴻上尚史さん……トコはどんどん指を折っていく。
「チケットを2枚買って、大ちゃんを連れていきました。彼は子どもなりに愉しんでいたと思います。長塚さんの不条理劇もおもしろかったね、すごかったね、と言ってました」
月に1度は福岡の実家に帰る。母親のトコは次男の表現活動のよき理解者であり、観察者だ。「飼っていたハムスターが死んで、母親と一緒に近所の神社に埋めに行きました。死んだハムスターを怖くて触れなかった」
 しかし多忙をきわめた母は2人の息子と過ごす時間が減り、家族がばらばらの方向を向いたようになった。当時のことを、2歳上の兄の秀幸は久方ぶりに記憶から掘り起こした。
「当時、私はアウトローな生活になり、そんな私を避けるように弟は部屋からあまり出てきませんでした。不良っぽい友人やギャルみたいな女の子とリビングで溜まったりしていて、弟は部屋から出てきて彼らに絡まれるのが本当に嫌だったようで、トイレすら我慢していたようです」
 松居は兄を避けていたが、兄は兄で「ダサい引きこもり」の弟に無関心だった。
「その時の私への怒りや恐れの感情は、彼の表現に多く使われていると思います。ゴジゲンの初期の作品はその頃の家族をそのまま描写していて、胸がしめつけられました」
自分の世界を煮詰めていった少年時代
 松居は兄の述懐通り、兄が怖くて部屋に引きこもるようになったという。ほとんど家の外に出られなかった。部屋に閉じこもる生活のストレスから過食になり太ってしまい、学校に行けば行ったで体形をからかわれた。ハムスターを母親に買ってもらい、寂しさを紛らわせた。そして、ひたすら尾崎豊を聴くようになる。歌詞を書き起こし、俺は自由にやりたいことをやって生きていいんだと自分を鼓舞し続けた。
 高校になると一人でカラオケボックスに行き、尾崎を歌いまくった。大まじめに「尾崎豊になりたい」と思った。今でも「コンディションがいいときに覚悟を決めて聴かないと気持ちをもっていかれそうになる」ほど好きだ。松居が脚本から手がけた最新作の映画「君が君で君だ」では尾崎の楽曲が使われ、主人公の一人にも「尾崎豊」と名付けているほど。
 独り引きこもった時間、母親の人生の選択、そして演劇の楽しさなどがないまぜになり、松居は独特の世界観を構築していった。家族との関係は、引っ越しをし、環境を変えることでだんだんと元通りになっていった。
 進学した東京の大学で演劇サークルに入った。そこで知り合ったサークル内の3人で劇団「ゴジゲン」を在学中に立ち上げ、のちに独立するのだが、松居が演劇人として生きていく影響を与えたのが劇団「ヨーロッパ企画」の上田誠(39)である。
 ヨーロッパ企画の20周年を祝うメッセージに松居が、[常に革命のようなコメディを開発しながら、血まみれで20年走り続ける師匠・先輩方の背中は眩しいです。演劇界で侮られ続けたコメディという分野で、圧倒的面白さでねじ伏せたこと、やっぱかっこいいです]と寄せているように、松居はヨーロッパ企画20周年公演の時に文芸助手として参加、そこで「ゴジゲン」と名付けてもらった。当時の上田は初対面の松居から人を惹きつける印象を受けた。
父は5年前に亡くなった。「いつか父親に認めてほしかったのですが、父の葬儀で、生前にぼくのことを少し自慢げに話していたことを知りました」
「最初は松居くんからメールをくれたんです。僕がある学生演劇祭のトークゲストに出ることになっていて、その演劇祭に松居くんも参加していて。その時に会えませんか、というような旨でした。飲み会で会って、なんだか屈折していながらも熱い心をもった人だなあ、と思い、というか完全に意気投合してしまって、松居くんの家にその日は泊めてもらいました。初めて会ってそんなことをしたのは後にも先にもという感じです」
興行的に成功した矢先、ゴジゲンは活動休止に
 年数を経るごとに、ゴジゲンは客も人気も獲得していった。しかし、11年に上演した「極めてやわらかい道」で活動を休止する。興行的にも2千人を動員して成功した矢先だったが、松居は自己嫌悪と屈折、混乱の極致にあった。劇団をつくってからは、劇団を大きくするための目的しかなかった。劇団員はその道具にすぎず、劇団員の意見も聞かずに自分の考えが絶対的に正しいと思っていたという。
「本当の優しさっていうのは、相手にバレてはいけない、気づかれたら優しさではないし。本当に好きな相手に好きだと伝えてはいけない。人に好きって言うことは、自分の気持ちを抑えられないから伝えるにすぎないというエゴで、そんな個人的感情なんかで相手の人生に迷惑かけるなよという謎の考え方をしてました」
 疑心暗鬼の塊のような、かつ他者に対して閉じた意識。これでは共同作業は難しい。大学の同期かつゴジゲンの旗揚げメンバーでもあり、全ての公演に出演してきた目次立樹(めつぎ・りっき 33)も当時の松居を覚えている。
「松居は自分を傷つけるように、成り上がらなきゃいけないみたいなかんじで演劇をやっていたし、いっしょに創作していてこっちまで苦しくなったぐらいです。いったん休止することには賛同しました」
 ゴジゲンの休止はむろん、松居本人の葛藤の末の自滅的判断ではあったが、目次が「やめたい」と申し出たことが決定打だった。目次に対して松居は盟友とも畏友とも言える不思議な感情を持つ。
「目次がやめたら(ゴジゲンを)続けられなくなるんです。彼がいるから続けていられる。ぼくはいつも目次のことがわからないんです。わからないから、毎回いっしょにやってきている。わからないから、いつもやっていておもしろくて。14〜15年の付き合いになります。やり続けるモチベーションとして目次という存在があるんです。彼をわかりたいからではないけれど、彼がわからないから、わかりたいからワクワクする」
 演劇の休止と入れ替わるようにして、松居には映像の仕事が次々と舞い込んできた。初めて映画監督をするのもこの時のことだ。ゴジゲンの芝居を観に来ていた映画の配給会社のスタッフが「漫画の『アフロ田中』をこんなタッチで映画に撮ってほしい」と監督のオファーをしたのだ。それが松居にとって、監督業を手がけるきっかけになる。
いきなり映画監督に抜擢、人と対話ができるように
 それまで商業映画を撮ったことはなく、当然助監督などの経験もなく、いきなりの監督抜擢。映画には原作があり、かつ大勢のスタッフとの共同作業になる。監督としていくつもの作品に携わるうちに、自分だけが正しい、では現場は回らないことを身体でわかるようになってきた。映像の現場のプロたちに揉まれて、自意識の鼻がへし折られた。
「それまでは自分だけでやっていると思っていたけれど、自分ができることは少ないと思うようになった。専門知識もない中で、たくさんの人といろんな角度から一緒に作品を考えて、自分が思ってもなかったようなものが生まれて、人を信じてみようと思った。ですが、その一方で第一線にいる俳優やミュージシャンがおまえの感覚おもしろいと認めてくれて、人と対話ができるようになっていったんです」
 それから3年後、松居は目次に電話した。「また、やりたい」と。松居からの電話に目次が応えたことが、ゴジゲンの再始動へ強い動機付けになった。
 今年、松居が監督をした映画と舞台が公開された。映画「君が君で君だ」と、ゴジゲンの新作舞台「君が君で君で君を君を君を」だ。どちらも「極めてやわらかい道」が基になっている。「君が君で君だ」に関しては、設定はほぼ当時のままだ。
 鬱屈が塗り込められたようなアパートの一室。一人の女性に憧れる3人の男が段ボールで窓をふさぎ、そこに開けた小窓から彼女の生活を観察し記録し続ける。彼らの部屋は「国」となり、国の外側にいる者の侵入を拒む。社会とつながるのは段ボールに開けられた「小窓」だけ。一人の女性への愛を観察することでしか表現できない男たちの狂気じみた存在。当時の松居の「恋愛は一方的なものでしかないのではないか」という問いかけを表現したものだという。
「君が君で君で君を君を君を」はさらに映画からの進化形である。松居は8年もの時間をかけて一つのテーマを追い求めてきたことになるが、時間が経つほどに演出が変わるのは、松居の心の在り方の変化そのものだと言っていい。しかし、演者の言語化できないような感情や情熱がほとばしり、放熱する世界は連続している。
新たな迷い生んだ大杉の死。まだ心の中で生きている
 隠し窓のようなところからしか世界とコミットできないのは、松居の原風景とつながっているのではないか。「極めてやわらかい道」を観劇し、「君が君で君だ」のプロデューサーとして尽力した、大学の同級生で大手広告会社に勤める阿部広太郎(32)にそう問いかけると、すぐに頷いた。
「狭い小さい部屋、小さい世界から抜け出したいと思っていてもできない。不器用で何者かになりたいと思っていてもできない。ああいう部屋は誰の心の中にもあるんじゃないでしょうか。松居君のどの作品にも不器用でうまく生きられない人が描かれていると思うのです」
 この11月に福岡でひらかれた「君が君で君で君を君を君を」の宣伝イベントで、「極めてやわらかい道」から今作に至るまでの違いを常連の客から質問され、松居はこんなふうに答えた。
「最初の舞台(「極めてやわらかい道」)のように、勝手に他人と線をひいて、こっち側にいるやつだけで国をつくって、他の人を入れないというのを無意識的に自分はやっていたけれど、今回のはまったく別物になっています」
 自分は生まれ変わったのだと言いたげな、松居の笑顔が印象に残った。しかし、まちがいなく大杉の急逝が松居に新たな迷いを与えてもいる。
「漣さんはこんなに多くの人に愛されていたんだと知って、それまで自分は少ない人に深く刺さるものをつくるという考えだったのが、多くの人に愛されるものをつくりたいと思うようになった。自分に漣さんの話をみんながしてくれるのは嬉しくもあり、そうでもないのです。俺の中では漣さんはまだ生きているのに、みんな後片付けしてるみたいで…」
 私戦のような自意識との闘いや葛藤。松居はそこからは逃れられないのかもしれない。ゆえに、言葉にならないような人間の感情をなんらかの表現に託し、社会へと放出させ続けないと窒息してしまうような忙しい日常を送る。
 それでももう、次のテーマは決まっている。今後は「家族」を真正面から描いていきたいのだと言う。家族ってなんだろう。そんな松居の咆哮寸前の声はもう喉から出かかっている。(文中敬称略)
藤井 誠二
1965年、愛知県生まれ。ノンフィクション作家。著書に『ネット時代の「取材学」』など多数。最新刊に『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち』がある。