「信じて良かった…」6万円を貸した男性は埼玉の医師 捜していることを知り感激の涙
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この6万円、利子をつけて貸した訳でもないでしょう。
それどころか、名前すらわからない中で貸すという時点で「もしかしたら返ってこないかも」という思いもよぎったはず。
つまり善意。
交換価値ではなく「貸してあげたい」という経験価値が優ったということ。
一方で借りた高校生も探すことをしなければ返さずとも済んだのに、返そうとした。
それはお礼を言いたかったから。
その結果、彼は捨てた交換価値(お金)以上の経験価値を得た。
あら不思議。
お金が「行って」「帰ってきた」だけなのに多くの価値が生まれている。
では、もし以下のような行動をお互いがとっていたらどうでしょう?
・もし医師が信じて貸すことをしなかったら…
・もし医師が利子を付けて貸していたなら…
・もし借りた高校生が返そうと探さなかったら…
おそらく、こういった価値は生まれなかったでしょう。
つまり世の中には交換価値ばかり重視していては決して生まれない価値があるということ。
それをこの記事は教えてくれる。
きっと我々が今読むべき大切な記事。この行為は経済的に何の価値も生んでいません。貸した6万円がそのまま6万円で戻ってきた、それだけの話です。
1円も増えてないにも関わらず、かたや人を信じることに涙したお医者さんと、人に助けられて大切な人の葬儀に参加できた高校生が生まれています。つまり両者に精神的充実がもたらされています。
この両者に生まれた喜びまで含めて捕捉しようとするのが社会学であり、特に人間をホモエコノミクスとして定義する経済学と対照的に、社会学では合理性基準を精神的報酬にまで広げた存在、ホモソシオロジクスと定義しています。
このモデルを採用すると、我々は理論上幸福を無限に拡大できます。
手元に使い道のない500円があったとしましょう。それを私はどうしても500円必要だったBさんに貸しました。次にBさんはレジで500円足りず困っていたCさんに貸しました。Cさんはお札の使えない自販機で立ち往生していたDさんに貸しました。そしてDさんはAさんに500円返しました。
もし仮にこのAさんからDさんが全員人を信じ、人に信じられることに喜びを見出せる人間であれば、全員の効用は増加しています。そしてそこには結果的に一銭もかかっていません。
自分はここに学問としての社会学の可能性と、次の社会像を見出しています。人と人が繋がり合い信じ合うことで無限に生まれる幸福。
もはや金銭的・物的報酬が多くの人にとって飽和状態となった今、我々はどうすれば精神的報酬を拡大できるか、真剣に考えるべき時が来ているように思います。先日、とある対談記事の取材を頼まれて鎌倉へ行ってみたら、同席したカメラマンの方から「中村さん!」と声をかけられました。「え!?あれ?」
7年前、ぼくがサンシャイン池袋のトイレで財布を拾い、落とし物として事務所に届けたのですが、後日、「カードも入っていたので、失くした後、出てこないかもしれないと諦めていましたが、あなた様のお陰で本当に助かりました。ありがとうございます」と感謝の手紙を送ってくれた財布の持ち主の池田さんでした笑 それがきっかけでFacebookで繋がりました。
そして奇跡に奇跡が重なり、7年越しにお仕事でご一緒したのです。人生は不思議です。