「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違いなワケ
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「正解」がないのだから「不正解」もない。
登場人物の心情は「わからない」が、正解だと決めつける必要はないのでは。
その人になりきって、気持ちを考えることは、多様性を学ぶことはもちろん、心の柔軟性を育むこともできます。
授業では「答え」を求める「問い」をしなければならない。「わからない」の一言ですませる。そんな固定的に考えないほうがいい。おっしゃっていることはよくわかります。
しかし、日常的なコミュニケーションもそうですが、予想や予測は人間生活を営む上でどうしても必要です。
小学校などはいわゆる「普通の感覚」を身につけるのがとても大切だと思っていて、今までの教育でいいんじゃないかと。
例えば算数で、「次の三角形でA角の角度は?」という問で、「鉛筆の厚みがあるし、角も丸いので三角形が見つかりませんでした」という回答は正解ですが、普通の感覚ではないですよね。なぜ間違っているのか?
それは、国語に求められる力が
・論理的思考力
・想像力
・知識力
・語彙力
だからです。
でもね、これって案外バカにできないんですよ。
第三者が書いたり話した内容に思いを馳せることは、社会人にとっても意外と大切だったりしますよね?
上司の思いを汲むこと、会社の方針を理解すること、取引先のニーズを慮ること。
皆さん、無意識にされていらっしゃるはずなんです。
そういうトレーニングの一貫として、国語教育がある。
そう考えれば教育的に無意味かもしれませんが、まあ将来役立つ(可能性のある)訓練をしている。
っていうぐらいに考えてもいいと思います。
無駄なものは多々ありますが、小学生〜中学生〜高校生の教育において無駄でないものを探す方が難しいでしょうから。。