自動車、5G、医療まで。僕らの進化は「素材」が決める

2019/2/18
焼き物のお皿や、繊維でできた衣服、鉄に包まれたクルマ、木材の家まで。あまりにも生活に身近なゆえに、普段あまり光を当てることのない、「素材」の世界。
その産業の規模はいかほどか、読者のみなさんはご存じだろうか?
実は、産業全体の3分の1を占める、日本の基幹産業である。
今、その素材産業に異変が起きている。時間と根気の要る新素材の開発に、高いスピードが求められているのだ。何しろ、ソフトウェアの世界は動きが速い。同じようにハードウェアにも進化が要求される。
自動車、スマートフォンなどの電子デバイス、そしてライフサイエンス。
こうした世界がテクノロジーで進化し続ける傍ら、「新しい素材で解決してほしいという要望の数も、種類も、同じように増え続けている」。
世界の先端材料の研究に詳しい、科学技術振興機構・研究開発戦略センターの永野智己氏は、そう指摘する。
2012年10月、衝撃的な“事件”が起きた。
現在のリチウムイオン電池の先にある、次世代のバッテリー「全固体電池」。トヨタが長年の経験と勘を頼りに、実に5年の歳月をかけて実験を繰り返し開発に漕ぎ着けたその電池材料は、世界の先をゆく最新技術によるものだ。
ところが、韓国サムスンと米マサチューセッツ工科大学(MIT)が共同で、フィジカルな実験をせずして、データ分析とシミュレーションを駆使し、わずか1年という短期間で同じ材料を開発することに成功した、と発表したのである。
(写真:Bloomberg / GettyImages)
こうしたデータサイエンスに基づく材料開発は「マテリアルズ・インフォマティクス(MI)」と呼ばれ、今、世界中の注目を集めている。
引き金を引いたのは2011年、アメリカ政府が「マテリアルズ・ゲノム・イニシアチブ(MGI)」の立ち上げを宣言し、翌12年に巨額の予算を投じたことだった。
従来の材料開発手法では間に合わない──。
この衝撃的な発表に当時、トヨタが身震いしたのは間違いない。日本はこうした世界の材料開発の潮流から、明らかに後れを取ったのだ。

日本は勝ち残れるか?

ハイテク化学素材は、自動車産業との関係が深い。欧州、アメリカ、そして日本。自動車が強い国の化学産業が、いずれも強い技術力を誇るのもそのためだ。
かつて鉄を中心とした金属で作られてきた自動車は、可能な限りプラスチック化することで、軽量化が進み、燃費の劇的な改善に寄与してきた。
自動車用の鋼板(ハイテン)の市場規模が約4兆円に対し、すでに自動車用の主力樹脂(ポリプロピレン)だけでも、1兆2000億円をゆうに超える。
これが自動運転社会になれば、さらに話は変わってくる。
自動運転時代には、人間が「目」で見る必要がなくなれば、透明度の高いガラスも不要になるかもしれない(写真:Bloomberg / GettyImages)
クルマがぶつからないことを前提とすれば、金属ほどの強度は不要になり、樹脂素材がさらに求められるからだ。
近年、ストローやレジ袋など、すでに樹脂化されている分野において「脱プラスチック」が叫ばれることと並行して、むしろ自動車では、「鉄のハイテク樹脂化」というトレンドは続いてゆく。
興味深いデータがある。日本の国際競争力を先端製品・材料別にプロットした図だ。
これを見ると、自動車の世界市場規模は大きいが、日本のシェアは23%に過ぎない。これに対してハイテク素材は、個々の市場規模は小さいが、日本が極めて高いシェアを確保している市場が数多く存在することがわかる。
しかし、これから先は分からない。
素材・化学分野の技術は、基礎研究から実用化までに20年はかかると言われる。しかも、たいていは新素材というのは、誕生した段階では何に使えるかよくわからない、その「可能性」に気付かないのが常という世界だ。
つまり、素材は当たると大きいが、20年先を見据えた高度な経営判断が求められると同時に、それに耐えうる経営体力も求められる。
世界を見渡せば、ドイツの化学最大手BASFは売上高約8兆円を誇る。2017年には米ダウ・ケミカルとデュポンが世紀の合併をして同7兆円規模の化学メーカーが誕生するなど、大型再編が相次いでいる。
2017年に誕生した、米ダウ・デュポン(写真:Bloomberg / GettyImages)
翻って日本では、国内最大手の三菱ケミカルですら3.7兆円と、世界トップ企業群のほぼ半分の規模だ。次なる素材を生み出すために、豊かな研究の“土壌”を整えるという意味では、あまりに心許ない。

文明飛躍の鍵を握る「新素材たち」

果たして自然界に類を見ない「人工材料」を開発する高分子化学の最先端では、いかなる新素材が今、生まれようとしているのか。
そして日本は、これからもこの分野で勝ち続けることができるのか。
本特集では、未来を読み解くヒントとなる、魅惑の「新素材の世界」へ誘おう。
石の武器、鉄の鍬、紙や磁石などの記録媒体。歴史を振り返れば、時代が求める優れた新素材の登場は、その度に文明を次なるステージへと飛躍させてきた。
第1回では、人々の生活を一変させてきた、素材の“神”とも言える5つの素材を中心に、わかりやすいインフォグラフィックで「素材の歴史」を楽しく学び直そう。
第2回、第3回の主役は「プラスチック」だ。
人類が「石」を使い始めて330万年。これに対し、プラスチックの登場は19世紀のことであり、たかだか150年ほど前のことだ。
そんな現代最大の大発明たるプラスチックの物語、そして「紙とプラスチック」の駆逐を掲げて奮闘する、1人の起業家の横顔を紹介する。
水98%を含みながらシリコンゴム並みの強度を実現した「アクアマテリアル」、成型加工が難しいカーボンナノチューブのゲル化に成功した「ナノチューブゲル」、光エネルギーを使って分子全体を大きくねじる「分子ペンチ」。
世界的なサイエンス誌の両雄、「Nature」と「Science」への論文掲載回数が異様に多い、先端素材の“おもちゃ箱”とも言える研究室がある。
相田卓三ラボ。東京大学の化学者だ。
製薬企業研究者からサイエンスジャーナリストに転じた佐藤健太郎氏は、相田教授を「魔術師」と表現する。
目には見えない分子の構造をデザインすることで、目に見える材料の性質を操ってしまう、類例のない才能を持つ。今、ノーベル賞に最も近い日本人の1人だ。
「日本の化学産業は業績が絶好調。しかし、おそらく最後のボーナス期でしょう。10年でなんとかしなければ、もう売るものがなくなります」
第4回では、そんな警鐘を鳴らす相田教授が、次々と不可思議な新素材を生み出す、その「発想法」に迫る。
人体の中にある「管」を内側から広げるステント。今はマグネシウムなどの金属素材が使われているが、いつまでも体内に残ってほしくはないのが金属だ。
例えば血管の中で圧力がかかっても壊れない強度があり、かつ一定期間で分解されるような樹脂素材は、世界中が競って開発しているが、いまだ存在しない。
こうしたライフサイエンスの分野も、新素材への期待が高まる巨大市場の1つ。そして、そんなライフサイエンスやヘルスケアへと華麗に「業態転換」した化学企業がある。
富士フイルムだ。
第5回では、写真フィルムの現像に最適だったコラーゲンという材料が、生体となじみがよいことから医療・コスメ分野へと活躍の領域を広げることとなった、そんな同社の「コラーゲン技術」に注目する。
次世代ディスプレイの大本命、有機EL。米アップルのiPhoneにも既に採用される、このディスプレイの「源流」が、日本の積雪地にあるのをご存じだろうか。
山形大学工学部。ここは、高分子素材の原点とも言える人工絹糸(レーヨン)の大量合成法を確立した、あの帝人を生み出した素材都市だ。
そして、世界中が有機EL開発へと大きくシフトするきっかけとなった「発見」がなされたのもこの地なのは、果たして偶然か。
第6回は、そんな有機ELの「上流」から、次世代パネル競争のディープな景色を眺めてみよう。
クルマの走行データやスマホを持つ人々の行動データが集積されてゆく中、インフラの役割を期待されている第5世代移動通信(5G)。
しかし実は今、5G時代の夜明け前にして、素材開発の世界で密かに大問題となっているのが、「熱」だ。
米インテル史上、最年少の32歳でバイスプレジデントに就任したパット・ゲルシンガー氏は2001年に、興味深い話をしている。
「半導体チップの高性能化が今のペースで進めば、2010年にチップの熱密度は原子炉と同じくらいに、そして2015年には太陽の表面と同じくらいになる」
こうした電子デバイスやサーバーなどの「熱」は、半導体封止材料などの素材によって放熱がなされてきた。
しかし、その最適なハンドリング手法はまだ確立されておらず、今後、「限界」に達する可能性はある。つまり、熱は5Gのボトルネックにもなりかねないのだ。
第7回は、「熱」の生まれる最小単位の量子力学から、その制御に挑む「熱の第一人者」に、この問題を分かりやすく解説してもらおう。
2018年、世界15万足限定で発売されたアディダスのランニングシューズが、“瞬間蒸発”した。即完売となった秘密は、見たことのないソール部分にある。これまで決して作れなかったような網目のソールは、3Dプリンターで量産された代物だ。
これを作った男こそ、ジョゼフ・デシモーネ博士。3Dプリンター業界を席巻する米スタートアップ、カーボン社のCEOにして化学者だ。
3Dプリンターだからと侮るなかれ。今や「試作品」を作るだけではない。今年はソールという「製品」を昨年の10倍の150万足も量産する計画というから次元が違う。
鍵となったのは、素材専門家の誰もがアッと驚く発想で開発に漕ぎ着けた、先端材料にある。そのひらめきは、映画『ターミネーター2』がきっかけだという。
液体金属から生まれる人間型兵器の映像にヒントを得て、「液体から連続して製造する」という材料技術を実現してしまった、デシモーネ博士の独占インタビューをお届けしよう。
それでは、新素材の世界へようこそ。
(取材:池田光史・冨岡久美子、デザイン:すなだゆか)