落合陽一×宮台真司 次の時代をどう生きる
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注目のコメント
宮台氏は目を合わせずにタブレットでミーティングする落合研究室のことを、感情的に劣化したクソ研究室だと評価するのだろうか。
宮台氏は、人間には生得的に眼差しによる身体的な享楽があるという。今では街で目が合わなくなってしまった。人間は偶発性に誘惑される存在であり、不規定性、得体の知れないものに惹かれる。コントロールできない、帰結がわからないからこそ制作する。それが生きるということ。それを避けるようになった現代は、感情的にも性的にも劣化しているという。
それに対し、落合氏は、偶発性が排除された社会で育った人たちにとってはそれが普通となり、メジャーとなっていく。そうなったとき、ヒューマニティはどうなっていくのか。断絶に対する危機感があるという。
宮台氏は自分の「ナンパ師」的な眼差しの享楽という価値観をテックで取り戻すということに懐古的にこだわっていて、落合氏はそれもそうだと思いつつも、テックで自分がいいと思えるものを作り出せば良いと基本的に考える一方で、そこについてこれない人たちをどう考えればよいのかについて考えている。
宮台氏は、あまり関係なくても自分の引き出しで語れるときはアフォーダンスだのスリーディメンショナルなフラクタルだの難解な用語を駆使して煙に巻きながらペラペラ喋り、引き出しが足りないときは、落合氏に同意する。
偶発性が失われていると言われる一方で、世界はより不確実性を増していて、個々の人に押し付けられている偶発性はむしろましている気がする。SNSを通じてますます見知らぬ人との接点は増えている。自由なやり取りの中で、たしかにクラスタ化されているが、それはますます複雑につながっている。
生物の脳は一定の刺激に対して一定の範囲のパターンの反応を持ちつつ、状態によって微妙に無限に変化する。時に非線形な反応もする。この議論で人間性と呼ばれているものは、動物の脳の偶発性でしかない。
今のAIが生み出すものは、事前に"プロ"グラムされた出力だけでなく、事前に予期できない偶発性をも生み出す、まさに"ポスト"グラム的な存在になっている。
カマキリはゴキブリの仲間だから目が合って、子供はバッタより目が合うカマキリの方が好きというのなら、大量のゴキブリに見つめられて生活する享楽に溺れてみては?
私は永遠に目があうことのないカエルにも深遠な魅力を感じます。昨晩観ましたが面白かった。
偶発性、目が合うことの享楽、今朝電車に乗りながら、確かに今は誰かと目が合うことって少ないよなぁと思いながらキョロキョロしてしまいました。一語一句聞き逃せない濃密な対談。なんと初対談らしい!知的で高度な二人の会話の根底に、生きるということ、人間であることの意味、美しさ、喜びを感じ、映画をみているかのようにドキドキしながら見入ってしまいました。
キーワードの一つに『目が合う』というのが挙げられていたのが興味深い。誰にでもわかりやすい行為だが、お二人はその微妙な動きに違いを見出していて、特に虫と繋がる文脈は、原始から未来が一気につながり爽快でした。
生まれたての赤ちゃんって目が合わないんだけど、そこも含めてこのテーマで改めて聞きたい。