看取りに接する医師と看護師が伝える、 医療者まかせの看取りが怖い訳 - 後悔しない死の迎え方
コメント
注目のコメント
会話の前半部分、医療者と患者の距離の話は、sympathyとempathyの違いの話のように思います。
ともに共感というような言葉で訳される両者ですが、その意味合いは大きく異なります。共感には感情的な側面と理性的な側面があります。前者のsympathyには、感情移入する、一緒になって悲しむ、患者さん自身と同じ気持ちになる、というような意味合いがあります。一方、後者のempathyは、患者さんの感情を理解し、より良い状態になるための提案ができること、のように定義されます。
両者は重なりのあるコンセプトですが、医療者は重要な局面でも冷静な判断を求められるため、empathyを持つ必要があると教えられます。
人の死を前にして、なかなかそのようなことを意識することは難しいですが、私個人を内省するとスイッチがあるように感じています。病院にいる間はempathyのスイッチが入っていて、最大限患者さんだったら、家族だったら、と想像し、どうしたらより良い提案ができるだろうかと考えています。その間、不思議と悲しみのような気持ちは訪れません。ところが、ひとたび自宅に帰ると、それまでの出来事を振り返って突然涙が溢れ出すという経験をします。急に医師のスイッチ、あるいはempathyのスイッチが外れ、sympathyのスイッチが入るのだと思います。
それが良いことなのか悪いことなのかよくわからずにいましたが、最近では、このようなスイッチが意識できることもまた、プロフェッショナルの技量なのではないかと捉えられるようになりました。
医療者も数多く人の死に接しているとはいえ、死の捉え方は十人十色、死への準備、理解は十分にできていないものです。そういう意味で、対談で指摘されるように、早いうちから家族や友人、自分をよく理解する方と話をする機会を持つ、そのような機会を通して共通理解を持っておくということが、大切な準備なのだと感じています。色々考えさせられる記事ですね。
若輩ながらですが、、、
補液一つでも考え方で延命となるなか、苦痛を最小限にしたい思いと、なんとか少しでも生き長らえて欲しいという思いのなか、葛藤をしている家族。
そんな中で「経管栄養どうします?点滴はしていいですか?このまま安らかに家族の時間を〜」と、最初に聞くことは、本当はただの業務手順にすぎないのかもしれません。
緊急時の対応は最初に家族と確認はとるものの、いざという時気持ちが揺らぐものです。ましてや状況は様々。
この記事を拝見し、本人の意識確認の取れない状況下では「最後を迎えるための準備」を、家族を主とし、医療者はその手助け・提案をする事で、家族が「ありがとう」と喪に服せると思いました。
家族に対する接し方を再度考えさせられました。NPの面白さは Picker さんのコメントの面白さ。それが段々と分かってきました
山田悠史さんの言われる Sympathy と Empaty のお話。対人支援職の方でもゴッチャになっている方が多いと思います
つまり現場で線引きが出来ている人がとても少ない、ということ…それが現実です
それ故に適度に距離が取れる、現場を離れたら冷たくなれるぐらいの方が対人支援者には合っていると思っています(という記事も昨年ありましたね…)
それが山田さんの言われるプロフェッショナルだと、わたしも思います。そしてそれが出来る人を、看取りやグリーフサポートの現場に増やしていきたいです
ちなみに後閑さん、中山さん、そして前回の記事で対談された西智弘さんのような方に医療機関で出会える確率、そんなに高くはありません
記事ではそのことにも、触れて欲しかったなと思いました。。