デジタル決済の脆弱性

数百年前に発明された紙幣は、今なおデータ保護の究極の手法だ。
追跡できない決済手段が人類史上初めて姿を消すことになったら、私たちは間違いなく幸せになるわけでもなさそうだ。自分の支出を秘密にしておけるかどうか、懸念する人はたくさんいる。
実際、反対運動も起きている。
近い将来、事実上のキャッシュレス社会になろうとしているスウェーデンでは「コンタントウプロレット(スウェーデン語で「現金の反乱」の意味)」を名乗るグループや海賊党が抗議の声を上げている。
市民が電子マネーを使えば政府が監視しやすくなることや、デジタル決済システムの脆弱性を憂慮しているのだ。
アメリカでは連邦準備銀行の3人のエコノミストが2000年から、キャッシュレス社会ではすべての支出を監視できるようになると指摘している。仮想通貨の専門家は、インターネットの黎明期からこれらの問題を提起してきた。

大きな変化の裏側に

いったい何が心配なのか──。
正しく使えば、電子マネーはより多くの人を金融システムに組み込むことができ、国外への送金や保険の加入など、さまざまなコストが安く済む。現金が犯罪や脱税を助長していることは、議論の余地がない。そして、現金は文字どおり汚れている。危険な細菌に覆われているのだから。
「テクノロジーの進歩ほど良いことはない」と、ペイパルの共同創業者で、現在は自らが立ち上げたオンライン割賦サービス、アファームのCEOを務めるマックス・レブチンは言う。
ただし、デジタル決済の普及は社会にとって明らかに良い変化をもたらしているが、そのような大きな変化には必ず裏もあると、彼は付け加える。
中国では、たとえば1989年の天安門事件に関する書籍を買うときは、現金で支払うほうがはるかに好ましい。
「自分の銀行口座を使ってベネズエラのニコラス・マドゥロ政権に反対する政治活動に資金を提供すれば、非常にまずい事態になるかもしれない」と、自由主義のシンクタンク、アメリカ経済研究所のウィリアム・ルター所長は語る。

フェイスブックの教訓

独裁政権ならそうした心配もあるかもしれない。しかし、裕福で見識がありそうな政府の下でも起こり得るのだろうか。
スウェーデンの海賊党所属で元欧州議会議員のクリスティアン・エングストロームは、実際に起きていると強調する。
内部告発サイト「ウィキリークス」がアメリカの外交公電を公開して米政府の面目をつぶした際、ペイパルは米国務省の圧力を受けて、2010年にウィキリークスが寄付金集めに使っていた口座を凍結した。
2012年にはビザ、マスターカード、バンク・オブ・アメリカも契約を解除。この「銀行封鎖」でウィキリークスは寄付金の95%以上を失った(現在はクレジットカードやペイパル、仮想通貨、小切手で寄付できる)。
この問題について私が話を聞いたほぼすべての人が、イギリスのデータ分析会社ケンブリッジ・アナリティカのスキャンダルに言及した。
内部告発をしたデータサイエンティストのクリストファー・ワイリー(会社の設立にも携わったと語っている)によると、同社はフェイスブック用の性格診断アプリを使って収集したデータをもとに、2016年の米大統領選前に有権者の心理学的なプロフィールを抽出していた。
これらのデータを利用して、個人がどのようなメッセージに影響を受けやすいかを評価したり、個人に合わせたメッセージを数百万人の有権者に届けたりできたとみられる。
1人分の個人情報にたいした価値はない。しかし全国レベルの規模になると、この事件のような情報を大量に持っていることが、社会に大きな影響を及ぼし得ることが明らかになった。

武器化される個人情報

アップルのティム・クックCEOは、10月にブリュッセルで開催されたデータ保護に関する国際会議の基調講演で、この点を指摘した。
私たちの日常生活の退屈な情報は、保護する価値がないと思えるかもしれないが、それらの情報を使って形成されるデジタルなプロフィールによって、企業は私たちの本能を私たち自身より詳しく知ることができる。
こうした「データ産業複合体」において、個人情報は「軍事レベルの効率性で武器化されている」のだ。
もちろん、クックがこのようなことを言うのはご都合主義でもある。最大のライバルたちが広告を売る代わりに、アップルはiPhoneを売っているだけだ。とはいえ、アップルペイは、その個人情報保護方針によると、個人情報を第三パーティーに渡さない。グーグルペイの規約にそのような記述はない。
データをめぐる不安は「ニュー・ノーマル(新しい常態)になっている。決済に関するものだけではない」と、レブチンは言う。私たちはすでに、ポケットに監視装置(スマートフォン)を持ち歩いている。問題は健康管理や教育にも広まっている。
情報の記録と保存を紙に戻すという選択肢はない。そして、匿名性に関して最先端の技術である紙幣も、いずれ選択肢ではなくなる日が来るのだろう。

中央銀行と取引情報保護

連邦準備銀行の数人のエコノミストは2000年に、取引を隠す技術だけでなく、追跡する技術の競争も起きると予想した。彼らは正しかった。
フェイスブックとグーグルは、ユーザーを監視して広告を売るというビジネスモデルで大きな成功を収めている。ビットコインをはじめとする仮想通貨は、通常の決済ではまだ広く利用されていないが、物議をかもしている団体や組織を当局の弁護士から守る手助けをしている。
決済サービス企業はトークン化などの仕組みを開発している。そうしたシステムでは個人情報が保存される場所の数が限定されるため、少なくともデータ漏洩のリスクを減らすことにはなるだろう。
セントルイス連邦準備銀行のエコノミスト、チャールズ・カーンは、中央銀行は有形通貨を発行することによって、すでに取引情報の保護に携わっていると指摘する。
社会のキャッシュレス化が進むにつれて、紙幣を印刷する代わりに、決済の規制と情報保護が中央銀行の新しい仕事になるだろう。それによって中央銀行が発行する通貨の安定と安全が守られ、私たちは安心して利用できる。
キャッシュレス決済の一般ユーザーの保護は、後手に回りつつある。ビットコインなどの仮想通貨は、窮地に陥ったウィキリークスを手助けするかもしれない。
しかし社会全体としては、不安定な仮想通貨と超大手企業が個人情報の宝の山を吸い上げている現状の中間に、妥協点を見出す必要がある。
原文はこちら(英語)。
(執筆: John Detrixhe記者、翻訳:矢羽野薫、写真:William_Potter/iStock)
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