【解説1万字】鮎川財閥からゴーンまで。「技術の日産」今昔物語

2018/12/5
日本とフランス、国家間の対立が見えるゴーン事変。日産は、国として守るべき“宝”なのか。自動車ジャーナリストの清水和夫氏が、「技術の日産」を主役に日本の自動車立国史を解説する。
なかなか底が見えないゴーン問題は、断片的な情報が次々と報道される。
いったい、ゴーン容疑者はどんな悪事を働いたのか。日本の司法捜査はやりすぎではないのか。日産と三菱自動車は、裏でどんなシナリオを描いていたのか。
何より、ルノー傘下となった日産は、ルノーから何を学んできたのだろうか。
さて、自動車アナリスト中西孝樹氏の特集記事を読むと、ルノー日産のパワーバランスの歴史と実態が、よく理解できた。
【保存版】ルノーと日産「20年史」のすべて
筆者は、この問題をクルマの技術や商品、あるいは自動車メーカーを取り巻く時代背景という視点で考えてみることにする。
そもそも日本のトップメーカーだった日産が、なぜ経営不振に陥ってしまったのか。その辺りからひもといてみよう。

「プリンス自動車」のDNA

日産が自動車メーカーとして勢いを見せたのは、1960年代に遡る。
奇しくも現在は同じグループ下となった日産と三菱自動車は、国策の航空業を原点とし、財閥をバックに戦後成長してきた点で共通している。政府からは遠い地で生まれたベンチャーのトヨタやホンダとは、決定的にDNAが異なる。
日産は、旧鮎川財閥の一部門として「日本産業」の名前で1930年代に車を製造するようになり、その後「日産自動車」に社名を変更。
1980年代初頭には名実共に日本を代表するメーカーとなり、「技術の日産」「販売のトヨタ」とまで言われるようになった。